都市開発にかける人たち Vol.8

「霞が関コモンゲート<霞が関R7プロジェクト>」

霞が関コモンゲート

官民協働で先駆的な都市再生プロジェクトに挑む

官庁施設がひしめき合い、日本の政治の中枢ともいえる霞が関に、2つの新しい超高層タワーがそびえ立ち、周囲には緑豊かな街が形成された。

霞が関コモンゲート──官民が知と力を合わせて推進し、新しく生まれ変わった霞が関三丁目南地区の呼称だ。

霞が関コモンゲート(当時名:霞が関R7プロジェクト)は、2001年5月、小泉構造改革の一端である都市再生プロジェクトの目玉として世間に発表された。文部科学省および会計検査院のPFI手法による建て替えと、これらの官庁施設を含む街区全体の再開発という内容だ。都市再生プロジェクトの第一弾。加えて、民間の資金とノウハウを使って、公共施設を整備するPFI手法による国内初の中央官庁施設の建て替えと、日本の行政・経済・文化の中心ともいえるエリアの再開発に、世間の注目はいやおうなしに集まった。高い注目を集めるなか、2002年11月の入札公告により、新日本製鐵(株)(現、新日鉄エンジニアリング(株))、(株)久米設計、東京建物(株)、大成建設(株)ら総勢16社がコンソーシアムを結成。事業参画に名乗りをあげ、他2つのコンソーシアムと落札を巡ってしのぎを削った。

厳しい審査の結果、設計点2位、価格点1位、トータルバランス1位で新日本製鐵グループが霞が関R7プロジェクト遂行の権利を得た。それにともない、霞が関7号館PFI株式会社(以下、SPC)が発足し、官民一体となってビックプロジェクトに臨む体制が整った。

山積する難題に奔走する日々

SPCがプロジェクトのスタート地点に立ったと同時に、これより待ち受ける難題と格闘する日々のスタート地点に立った男たちがいた。大成建設・都市開発本部・PFI推進部(現、パブリックソリューション部)の広井義政と菊池大輔だ。

「都市再生プロジェクトの第一弾ということもあり、国が提示した入札説明書はとても大雑把なものでした。しかし、問題点を浮き彫りにし、解決策を提示することが、これまで都市開発業務に携わってきた私たちの腕の見せ所でもあったのです。結果として、SPCの中で都市開発という分野にノウハウを持ち、実績を残している大成建設が、他社を啓蒙しリードしていくことになりました」

2人には事業契約締結、地権者の同意、再開発事業の推進、都市計画に関する行政折衝など膨大で煩雑な業務が待ち受けていた。官民初の大規模な協働。お互いに歩調を探る部分があり、さらにそうそうたる地権者を有する地区の都市開発ということが重なり、いつしか“日本一複雑なプロジェクト”とまで評されるようになっていた。

「今回のプロジェクトは更地の上に建物を建てるというわけではありません。地権者の承諾、行政の様々な許認可が必要となります。地権者は、商店の店主、住民などの一般の方ではなく、国や歴史ある財団法人、大企業であり、それぞれの組織に即した物事の運び方、決め方があるため、画一的に進めるわけにはいきません。それぞれの組織のやり方に合わせて対処をしていく根気のいる作業となりました。また、国(各省庁)と東京都及び千代田区の都市計画決定権者との調整役としても奔走しました」

また、霞が関三丁目は歴史ある土地。多くの人がこの土地に対する並々ならぬ熱い思い、忘れがたい思い出を持っている。協議中、そんな歴史や人の思い、思い出に触れては“面影を継承しつつ、新しい街づくりをしなければいけない”という使命感から、自然と2人の肩には力が入った。計画を練り直しては、菊池が設計チームと相談し協議資料を作成。その協議資料を持って広井が行政、地権者などへ説明に赴き、理解してもらうという、昼夜問わずの二人三脚の日々が続いた。

「このプロジェクトが決まった時、ぜひとも広井さんとやってみたいと自ら立候補したので、どんなに辛くても逃げ出してはいけないと思っていました。遅くまで作業が続き、体力的にも精神的にも厳しい時もありましたが、あの頃はどうにかしてこのビックプロジェクトを成功させたいとの思いが強く、今から思うと充実していた日々でした」(菊池)
「今回のプロジェクトは着工までの事前準備が一筋縄ではいかないと予測はついていました。コンペの段階で『取らぬも地獄、取っても地獄』と言っていましたが、まさにその通りとなりました。協議を重ねる中で、日々、事業内容が変わっていき、その都度協議資料を変更する作業に、菊池はよく頑張って私についてきてくれました」(広井)

信頼関係で乗り切った短期決戦

前代未聞の複雑な事業の推進に苦労を重ねるなか、タイムリミットが刻々と迫ってきた。入札が決まった時点で、竣工の日は決まっていた。プロジェクトの規模と工事の安全性を鑑みた時、工事の期間を削るわけにはいかない。都市計画協議などに時間をとり、工事着工日をずらすことはできない。重い責任と使命がのしかかってきた。

「この規模のプロジェクトで都市計画協議が5カ月で完了したというのは異例中の異例です。というのは、今回は落札から竣工まで2年半ですが、以前は開発事業といえば、5年や10年かかるというのが常識でした。PFI事業は竣工引渡日を変更できないため、落札者にその遅延リスクが発生します。従って、今回は、落札した瞬間から私たちは全力で突っ走ろうという覚悟ができていましたし、業務遂行にあたり当時の上司の理解もありました。また、都市開発の実務経験がある私たちにできなかったら本プロジェクトは成立しないという開き直りもありました。まさに覚悟と開き直りで協議期間5カ月という試練にチャレンジしました。今から考えると、その期間が6カ月、7カ月、それ以上とかかっていたら、予定通りの竣工にはいたらず、今のようにプロジェクトの成功を素直に喜べなかったでしょう。それと、国の方もスケジュール通りに事業推進できるか半信半疑だったようです。落札が決まった時、言われたことは今回のプロジェクトでまずやることはスケジュールを見直すことだということでしたからね」

時間のリスクを抱え、協議期間5カ月という神業を成し遂げることができたのは、運でも奇跡でもなく2人が関係者と信頼関係を築けたからである。SPCの仲間と会社の垣根を越え、世間が大注目を寄せるこのプロジェクトを成功させようという情熱のもと、時には共に汗をかき、時には酒を酌み交わし、本音を言い合った。それにより、固い信頼関係が構築されていった。また、問題が生じるとすばやく解決策を提示することでSPCの中での存在感が増し、いつしか行政や地権者と協議の際、問題案件が出たらSPCにその都度持ち帰るのではなく、現場で判断できることはするという2人の裁量に一任されるようになった。結果、この裁量が大きな時間のロスを回避することになったのだ。

「SPCの中での信頼関係はもちろん、行政との難しい協議を通して国とも良好なチームワークが結成されました。また、行政や地権者とも誠実に付き合おうとすることにより、固い信頼関係を築けました。私たちのこのプロジェクトに掛ける情熱が伝わったのか、コンペのライバルでもあった隣接地権者の三井不動産が、地権者との協議に手を貸してくれるという一幕もありました」

限られた時間の中で、問題点を正確に把握し、スピーディに解決する姿に、周囲の関係者からは絶対的な信頼が寄せられるようになった。そして、気付けば2人は霞が関R7プロジェクトの中心に立っていたのだ。

チーム一丸になって勝ち取った成功

2007年10月2日、当初の予定通り、竣工式には空に向かって突き刺すように2つの高層ビルが並び、その周辺には歴史と現代が融合した素晴らしい街が完成した。

「これまでの都市開発の実務は膨大な時間を費やし、協議、進行はコンサルティング会社に任せることが多かったのです。しかし、PFIという手法で民間事業者が自ら事業リスクを抱えながら、スケジュール管理、行政や地権者との協議を行い、リードしていくことになりました。今回のプロジェクトは事業者が自ら主体的に動くという潮流を作ったということにおいても、意義のあるプロジェクトだったと思います」

このプロジェクトを遂行していく中で一番大切にしていたことは“みんなが幸せになること”と最後に2人は語った。すなわちプロジェクト成功のためにどうしたら一番よいのかという最善策を常に考え行動するということだ。
2人は常にプロジェクト成功のため汗をかくことをいとわなかった。その結果、関係者との固い信頼関係が構築され、5カ月という短期間で都市計画協議をこなし、設計、施工へとバトンを渡すことができたのだ。

官民共有の地(common)の形成によって、官と民が手を取り合い、都市を再生していく新しい時代への扉(gate)が、今、ついに開かれた。



旧霞が関三丁目南地区


この大階段の蹴上げ面にはこの地の記憶が年号とともにレリーフされ、見上げると巨大な年表となる


霞が関コモンゲート配置図


広井 義政


菊池 大輔

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