都市開発にかける人たち Vol.6

「大崎駅周辺再開発事業」

大崎駅周辺再開発事業

主な再開発地区
大崎駅東口第1地区「大崎ニューシティ」
大崎駅東口第2地区「ゲートシティ大崎」
東五反田地区二丁目第1地区「オーバルコート大崎」

空き地が目立つ寂しい土地、不便な道路状況

明治以降、大崎は日本の第二次産業をリードする工業地帯として発展してきた。だが時代の流れとともに工場の数は減少し、1970年代の大崎駅周辺はビルとしては低層ビルが一棟建つのみで、老朽化した工場や空き地が目立つ閑散としたエリアになっていた。街は住宅化が進んでいたにも関わらず、暮らしの基盤となる大きな道路は環状6号線と都道補助16号の2本のみで、さらにその他の道路も幅員6mに満たないものが大半という不便な状況。品川区はこのような事態をふまえ、大崎を“人が住み、働き、集う機能を供給できる地区”へと進化させるべく、再開発の対象地区に掲げた。

手探りでスタートした再開発事業

品川区が1978年に『品川区長期基本計画』で五反田・大崎・大井町を結ぶ都市軸形成を掲げた2年後、『大崎駅東口地区再開発基本計画案』が作成され、現在の大崎駅東口第1地区と第2地区が再開発エリアの対象とされた。これを受け、民間で再開発準備組合の事務局が組織されたのは、翌1981年のことである。当時は再開発事業のはしりで、西新宿のヒルトンホテルや六本木のアークヒルズなどの再開発がようやく始まったばかりの時代。事務局のメンバーで再開発事業に携わった経験のある者は、事務局長ただ一人だけだったという。この時、メンバーの一員として大成建設から事務局に派遣されたのが、清水宣治という男である。清水は当時を振り返って、こう語った。

「あの頃の大成建設は、再開発事業の経験がほとんどありませんでした。私自身、大崎のような大規模な再開発を担当するのは始めてのことで、まさにゼロからのスタート。会社から“片道切符”を渡されたような心境で、事務局入りしたんです」

当時の清水には、それが25年以上にもわたる長い旅路になるとは知る由もなかった。

第1地区時代(大崎ニューシティ)〜共通の目的に向かって走る〜

大崎駅東口第1地区の再開発事業は、清水を含め8人の事務局メンバーでスタートした。ここは、品川区が提案した都市再開発案をいち早く受け入れたエリアである。東京都が大崎を副都心に指定したのも再開発の後押しとなり、事務局が組織されてから工事に取りかかるまでわずか3年というスピーディな展開を遂げた。10年1事業と呼ばれる再開発事業の中でこのような早い進行が可能になった理由としては、清水曰く「地権者の数が少なく意見をまとめやすかったから」。彼は次のように回想する。

「大手地権者はいずれも再開発に意欲的でした。“会社発祥の地を再活用したい”とか、“新たな大型ビルを建てたい”という目的があり、各企業が協力しあって大崎を活性化させようという前向きな気運に満ちていたんです」

地権者らは駅前の土地を一部分ずつ出し合って共有の駅前広場をつくり、その広場を囲むようにして各々のビルを建設。駅から広場を通ってそれぞれのビルへと向かう動線を引き、人を呼び込みやすい道筋をつくることに成功したのだ。オープン前の大崎駅は山手線の中で2番目に乗降客数の少ない駅だったが、事業完了後はその数が2倍になるという飛躍的な伸び率を見せている。駅を利用する人々にとっても便利な“大崎ニューシティ”は、このようにして誕生を迎えた。

第2地区時代(ゲートシティ大崎)〜多難な合意形成への道〜

第1地区の着工に取り残された形となった現在の第2地区は、地権者数が100人近くにものぼり、再開発の合意をはかるのが難しい状況だった。1984年に第2地区の再開発準備組合事務所が設立された当初は、工場経営者や個人の地権者の一部から再開発に対する理解を得られない状況だった。地権者との合意形成に力を注ぐ、事務局のメンバーたち。事業推進への協力を得るためには、日常的な接触を重ねて地権者らの不安を取り除いていくことも大切である。第1地区の再開発でこのような経験を重ねていた清水は、ここでは裏方としての業務にまわってメンバーの活動をサポートしていた。 1989年、計画案を近隣住民に説明する段階に入ると、137mの高層ビルを駅前に建設することに対して、日照の侵害や風害等の懸念から計画見直しの意見が続出した。事業推進はまたもや暗礁にのりあげ、全335回にも及ぶ話し合いを重ねてようやく合意にいたったのが、原案よりも背が低くて横幅のある象徴的なビルである。高さを137mから98mにすることで日照の影響を低減でき、さらに上層階にスペースがとれなくなった代わりに横幅をとることで、オフィスや商業施設を多く誘致することが可能になったのだ。第2地区は、合意形成の問題に加えてバブル崩壊などの局面もむかえ、“ゲートシティ大崎”としてオープンするまでには約15年もの歳月がかかっている。それだけに、完成時の喜びは感慨深いものがあったはずだ。当時の心境を聞いてみると「それはもちろんです。しかしそれよりも解体工事が始まった瞬間が何より嬉しかったですね」という意外な答えが返ってきた。“建物を壊す”ということは、清水ら事務局のメンバーにとって、事業実施が決定してもう後戻りはしないということを意味するのだ。清水は当時を思い返しながら、これからの大成建設の事業について次のように語ってくれた。

「当時、開発事業とは事業の企画・提案から始まり、事業推進を経て工事の完成までがひとくくりと考えられていました。しかし現在では、完成後の運営・管理も携わっていくことが、大成建設における開発事業であると考えています。これからを担う若手社員には、このことを意識して仕事に取り組んでもらいたいですね」

東五反田地区時代(オーバルコート大崎)〜住民の願いが叶った〜

東京都と品川区の協議の結果、準工業地域の東五反田地区も再開発対象エリアに加えられ、1992年に東五反田二丁目第1地区再開発準備組合の事務局が設立された。東口駅周辺第1地区の開発が成功し、美しく蘇った街の姿を目の当たりにしていた地権者の多くは、再開発事業にポジティブな姿勢だったという。ここでの事業中、清水は自身の長きにわたる開発事業の中で特に印象に残ったという経験をしており、その思い出について語ってくれた。

「東五反田地区を南北に走る幹線道路2号は、道幅が狭く歩道も満足に確保されていない不便な状態で、住民から強く改善の声が上がっていました。この道路を街路樹やベンチがある歩道付きの道路につくり変えたんです。道路が完成して、広くなった歩道を散歩したりベンチに座って寛ぐ人々の姿を見た時は、なんともいえない達成感が体を包みましたね。民間企業でも、人々の暮らしを豊かにする仕事ができたということに胸が熱くなりました」

“住みたい街、行ってみたい街、働きたい街”をスローガンに掲げた東五反田地区の“オーバルコート大崎”は、2001年にオープンを迎えた。

より働きやすく、住みやすい街へ。再生はまだ終わらない。

清水が大崎の再開発事業に挑んでから、すでに25年の月日が過ぎようとしている。今回の取材ロケが行なわれたこの日、清水は久しぶりに大崎の地を訪れた。清水に案内されながら大崎ニューシティ、ゲートシティ大崎、オーバルコート大崎をそれぞれ回ったが、平日の昼前にも関わらず、いずれの施設も活気に溢れている。施設内の緑地スペースやオープンテラスで、のんびりと寛いでいる人の姿も多い。オフィススペースが、住民の憩いの場としてもうまく機能しているのだ。その光景からは、空き地が目立ち閑散としていたという過去の大崎を見つけることはできない。爽やかな風が吹き抜ける心地良い広場を歩きながら、清水は語った。

「オフィスと住宅、工場が入り混じった大崎は、東京副都心の中でもユニークな街。大崎の再開発はまだ途中段階で、完成するまでには私はもう引退しているでしょうね。最後まで携わることはできないかもしれませんが、でもそれで良いんです。住民や事業担当者が変わっていくとともに、暮らしやすい街の姿も変わっていくのは当然のこと。時代の変化に応じてより快適な方向へと進化を遂げる街、それが大崎の良さではないでしょうか」

“片道切符”を手にほとんど経験がないまま再開発事業の中に飛び込んで、体当たりで都市再生に取り組んできてから25年。清水が手探りで始めたこれらの事業は大成建設を代表するものとなり、彼は今、都市開発本部副本部長 兼 開発事業部長として部下の指導にあたっている。清水は自らの力で、華々しい凱旋切符を手に入れたのだ。

自分で決断することが、成功への近道
大成建設 都市開発本部副本部長 兼 開発事業部長(※取材当時)
清水宣治
私のこれまでの人生は、決断の連続です。相手がどのように考えているか理解し、状況を把握した上で、最終的には自分で決断するように心がけてきました。“私はこのように考える、こういうふうにしたい”とはっきり伝えることで、ここまでやってきたのです。再開発事業は多くの人間が絡む複雑な事業なので、“どうすればいいか?”と意見を仰いでばかりでは前に進めない。再開発に拘わらず、何かを成し遂げる人というのは、自分で決断している人ではないでしょうか。失敗したっていいんです。自分で決断してしくじった人は、自分が間違いをしたことに気づくのも早いから、すぐ次の手を打つことができる。失敗すればそれだけ選択肢が減って、目標地点に到達するのも早くなると私は信じています。私の挑戦は、まだまだ続きますよ。


ゲートシティ内のオープンテラスにて


清水が特に印象に残っているという、幹線道路2号の歩道にて

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