週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

金杉は 金曾木 だった

 JR鶯谷駅から言問通りに出て東へ行くと、昭和通りの手前でやや広い道が北へ延びている。金杉通りで、沿道には小野照崎神社や三島神社が鎮座している。

 道路名は、かつて周辺一帯の地名が「金杉」だった名残である。昭和四十年七月まで金杉一・二丁目、金杉上町、同下町があったが、それぞれ現在の根岸、下谷、入谷、竜泉、三ノ輪の一部になった。

 金杉は歴史の古い地名だった。江戸幕府が編纂した『新編武蔵風土記稿』に「金杉村」として記されている。

 「 (かんがえる) に當所は古き地名なり、相模國鶴岡八幡宮神主大伴氏所藏應永六年の文書に、武藏國豊島郡小具郷内江戸金曾木三郎跡事云々とあり、小具は近郷今の尾久村なるべければ、金曾木は當所の在名を氏に稱せしならん、果して然らんには是より前正和元年延文二年等の鶴岡八幡宮寄進牀に、武藏國金曾木彦三郎重定所領云云など記せしも、三郎が同族なるべし」

 応永六年は西暦一三九九年、正和元年は同一三一二年、延文は北朝の年号で二年は同一三五七年である。つまり、鎌倉時代末期から室町時代初期にかけて金杉は金曾木という地名だったろうとしている。

 この金曾木がいつ頃から金杉になったのかは分からないが、同書には小田原北条氏の『北条役帳』に「飯倉弾正忠十一貫二百八十文千束内金杉分」とあり、江戸時代の少し前は千束郷に属して金杉となっていたし、同時代初期の正保三年(一六四六)、東叡山(寛永寺)領となってから次第に町地ができて金杉上町・下町というようになったと記している。

 いずれにしろ金杉はかなり広い地域の地名で、根岸も金杉の中の一小名だった。また金杉の古称と見られる金曾木は区立の小学校名として現在も残っている。

(掲載号:03月17日号)