週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

北新宿 鎮守の 鎧神社

 平将門は東国に勢力を広げ、天慶 (てんぎょう) 二年(九三九)ついに朝廷に反旗をひるがえして翌年藤原秀郷 (ひでさと) らに討伐された。今から千年以上前の、この事件の関係者である平将門や藤原秀郷にまつわる伝説が東国の各地に語り伝えられているから面白い。

 『江戸名所図会』には、新宿区北新宿三−二三−二に現存する圓照寺の紹介に続いて次のような一節がある。

<鎧明神の祠 圓照寺の (うしとら) の方にあり。(中略)相云ふ。藤原秀郷将門を誅殺し凱陣の後、将門の鎧をこの地に埋蔵し、上に禿倉 (ほこら) を建てて鎧明神と称すといふ>

 圓照寺の艮(東北)の方角に (よろい) 明神を祭る (ほこら) (社殿)があるという説明で、たしかに現在も圓照寺の東北に隣接して鎧神社が鎮座している。

 伝説によると、将門討伐に向かう藤原秀郷の軍勢が中野からこのあたりに差しかかると秀郷が病に倒れ、薬もなく困り果てた。

 すると夢に薬師如来信仰のお告げがあった。それに従うと秀郷の病がたちまち回復した。将門討伐の目的も果たして凱旋した秀郷は薬師如来像を祀る圓照寺を建立し、あわせて将門の神霊を篤く弔い将門の鎧を埋めて鎧神社を創建したというのである。

 一説では、将門の弟将頼 (まさより) が鎧を脱いで一休みしていたところを秀郷の子千晴 (ちはる) の軍勢が急襲し将頼を戦死させたので地元の人々が将頼の鎧を埋めて鎧神社として慰めたともいう。また、神話の時代に日本武尊 (やまとたけるのみこと) が鎧と兜を納めて神社としたという伝説もある。

 定説はないが、遠い昔から地元の人々は鎧神社を鎮守として尊崇してきた。だから、神社の境内には「よろい保育園」があり、町内には鎧米穀店などの看板が目立つ。

 ここでは町と神社が溶け合っている微笑ましい風景が見られる。

(掲載号:03月04日号)