週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

根岸の 身代わり 地蔵

 花は上野か染井のツツジ今日か飛鳥と日暮しの 君に王子の狐穴から いろはの女郎衆に招かれて うつらうつらと抱いて根岸の身代わり地蔵を横に見て 吉原五丁回れば 引け四ツ過ぎには情夫 (まぶ) の客 あがりゃんせ

 伊予(愛媛県)松山の名物名所を歌った伊予節が元唄の端唄「花は上野か」で、江戸北郊の名所を巡っての新吉原までの道中記になっている。いろはの女郎衆は、寺町の谷中にあった、多く坊さんが客だったという水茶屋・いろは長屋の女性たちのことである。

 身代わり地蔵は、今、台東区根岸三−一三一一七の西念寺に祀られている。文芸や音楽の名人だったという江戸時代初期の伝説の女性・小野お通にゆかりがあるといわれる。

 彼女は俗説では浄瑠璃の初めといわれる『十二段草子』(『浄瑠璃姫物語』)の作者とされているが、この作品は室町時代後期の作と推定され、お通はそれに曲節を付けて語れるように改作した人物ではないかという説が有力になっているという(『日本大百科全書』=小学館)。いずれにしろ才女だったらしい。

 西念寺の由来書きには、身代わり地蔵は、初め、そのお通が徳川家康の孫の千姫に仕えていて宿下がりのとき根岸の里の田の中で見つけて祀ったのを、その後奥州下りの高僧が改めて祀り直したとある。

 だが、なぜ身代わり地蔵の名が付いたのか、はっきり分からない。『東京名所図会』には、この像は明治維新後に同じ根岸の安楽寺門前にあったものが西念寺に移されたとあるだけで、名前の由来には触れていない。ただ、古い歴史のあるお地蔵さまであることは確かだろう。

 今、高さ三十センチほどの地蔵は赤頭巾やよだれ掛けで覆われていてよく分からないが、上半身だけが残った像のように見受けられる。

(掲載号:02月10日号)