週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
江戸に できた 新名所
天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉は、小田原の北条氏を滅ぼして天下を統一した。と同時に、駿河・三河など東海五か国を領有していた徳川家康に、武蔵・相模・下総・上総など関東八か国を与えて東に移した。秀吉は家康を僻遠の関東に体よく遠ざけたのかも知れない。
家康は素直に秀吉の命令に従って江戸に移った。その頃の江戸は
家康がなぜ江戸を選んだかは明確ではない。鎌倉では手ぜまだし、小田原では関東八か国を領有するには西に偏りすぎる。しかし江戸と決めるには、かなりの決断が必要だったことは間違いない。
宮元健次『江戸の都市計画』(講談社選書メチエ)には、こんな伝説も紹介されている。
小田原攻めのさなか、家康が秀吉を陣中見舞いに訪れると、秀吉は小田原城を見下ろす場所で家康と連れ小便しながら「江戸が将来性のある土地だから、そこを居城とするがよい」と耳打ちしたというのである。
家康の最終判断の根拠はわからないが、将軍となった家康は当時荒野だった江戸を居城とし、そこに幕府を開き、新しい町を築いた。そして、寛文二年(一六六二)には早くも
新興都市江戸を紹介する最初の名所記で、初めに武蔵国、江戸御城、日本橋と並ぶ。有名な神社仏閣が中心だが、目黒不動、赤坂氷川神社、山王日枝神社のあとに「牛込
(掲載号:01月21日号)
