週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

子規庵 往時の 付近は

 正岡子規の文芸活動拠点であり、終焉地でもあった台東区根岸二丁目の都史跡子規庵付近は、今、ホテル群が隣接していて風雅な面影は余り求められない。彼が住んでいた明治二十年代から三十年代頃はどんな所だったのだろう。

 子規庵を戦災復興し、自分もそこで没した高弟の寒川鼠骨 (そこつ) 鼠骨著『正岡子規の世界』(青蛙房、六法出版社)の「子規庵の今昔」に、当時の情景が詳しく記されている。

 「(子規庵の)市町名は上根岸八十二番地であるが、通称は鶯横町であった。加賀侯の別荘の樹木、並びにこの貸家の庭の木立、それが直ちに南方上野谷中の鬱蒼 (うっそう) たる丘杜に続いてゐた。のみならず後背の北東方は、鶯横町の狭い径を隔てて、大きな商人の別荘の森林が高々と茂つていた」

 春は鶯を始めとする小鳥がさえずり、秋にはツグミなどの渡り鳥が群れをなして飛んでいた。横町も、その名に恥じなかったようである。

 「鶯横町から数歩を移すと、音無川が瀧ノ川を水上として清く流れ、 (しじみ) も居れば (ふな) (どじょう) などの影もちらついた。川向うは藁屋根の農家が遠近に見える日暮里田圃で、それが直ちに彼の漬菜に名を得た三河島の田圃に打続き、くきやかに晴れた日には、遠く筑波の双峰を望むことが出来た」

 家は別荘が多く、吉原遊廓の主の寮もあって、そこに出養生する遊女も見られたという。他に妾宅や隠居所が少なからずあり、画家も多く住んでいた、とある。

 「東京市と云ひながら、田舎らしい野趣横溢、閑静の (うち) にも幾分の艶情を含んだ地況をなしてゐた」

 暁の団栗たまる戸口かな  子規

 時折、汽笛の音やそれに伴う地響きがあっても、一帯には、まだ江戸の「根岸の里」の面影が色濃く残っていたようである。

(掲載号:12月10日号)