週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

大久保駅 をめぐる 鉄道今昔

 JR中央線の大久保駅とJR山手線の新大久保駅の間は歩いて五分もかからないし、所在地も新宿区百人町 (ひゃくにんちょう) 一丁目で双子のように同じ町内にある。しかし誕生にまで遡ると、この両駅は全く別の会社の路線の駅だったのである。

 JR中央線の前身は、明治二十二年(一八八九)に新宿と立川・八王子を結んで開業した甲武鉄道で、大久保駅の開設は明治二十八年にまで遡る。他方、JR山手線の新大久保駅開設は大正三年(一九一四)のことである。

 JR山手線は明治十八年(一八八五)民営の日本鉄道品川線としてスタートした。もともと北関東の生糸や薪炭を東京や横浜に送るために建設された鉄道だから、このとき開業した新宿駅の乗降客が雨の日などは一日一人だったとも伝えられている。

 鉄道がモノからヒトを運ぶようになると都市化が始まる。東京でその画期となったのが明治三十七年(一九〇四)の甲武鉄道飯田町(現・JR中央線飯田橋駅の東寄りに設置された当時の終着駅)−中野間の電化だった。発展し人口が急増する東京西郊から都心へ乗り入れる市民の足として力を発揮したのである。

 同時に、この頃から鉄道の国有化が進み始め、明治三十九年甲武鉄道と日本鉄道が相次いで国有化され、それぞれ「中央線」「山手線」と呼ばれるようになった。

 鉄道が市民の足として利用されるようになったため、利用客の便宜をはかって停車駅も増加し、「山手線」新宿−高田馬場間に新大久保駅が開設されたのである。

 大久保は、室町時代後期からかなり広い地域を指し、現在の大久保、百人町、余丁町 (よちょうまち) を含んでいた。明治二十八年、甲武鉄道が新駅を開設した頃はこの一帯が大久保村で、「大久保」の駅名がわかりやすかったようだ。

(掲載号:12月17日号)