週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

臺の下の 間借り人 正岡子規

 子規庵や書道博物館がある台東区根岸二丁目の細い道は鶯横丁の名がある。昔、根岸は鶯の名所で、子規も「雀より鶯多き根岸 (かな) 」と詠んだ。

 子規がこの根岸に本郷区駒込追分町(現文京区向丘)から移ったのは、明治二十五年二月末だった。彼の高弟・寒川鼠骨 (そこつ) 著『正岡子規の世界』(青蛙房、六法出版社)によると、下谷区上根岸八十八番地金井方の八畳と四畳半の二間を間借りしたもので、子規庵に住む二年前である。

 庵の少し日暮里寄りの丁字路北角が、金井家のあった所で、今、そこに建つ家の壁にその旨が掲示されている。

 子規が根岸の住民になったのは、風雅な地に魅力を感じたというより、彼の終生の庇護者といえる新聞「日本」の経営者陸羯南 (くがかつなん) (一八五七−一九○七)がそこに居を構えていたからだった。当時、既に東北本線などが開通していてその線路が近い引っ越し先を子規は「鶯の遠のいてなく汽車の音」とも詠んでいる。

 間借りした家は、陸家と路地を挟んで向かい合っていた。彼はここに郷里の松山から母八重と妹律を呼び寄せ、ほぼ同時に「日本」に入社、ほどなく一軒全部を借りた。

 母人は江戸はじめての
 春日哉

 翌年正月に詠んだ彼の句で、「母の詞自ら句になりて」の (ことば) 書がある「毎年よ彼岸の入に寒いのは」の有名な句はこの年の春の作である。

 また、陸家や金井家が後の子規庵と僅かしか離れていなかったが、当時の土地は子規庵付近より一段低く、「 (だい) の下」と呼ばれ、月や雪の名所だった。明治末年発行の『東京名所図会』に「臺の下は上根岸八十三番地より百三番地に至る土地の稱にて往時は松原と田圃なりしよしなるが今は皆人家となれり」とある。

 ちなみに、子規庵は八十二番地だった。

(掲載号:12月03日号)