週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

子規庵 再興の 寒川鼠骨

 明治の俳句や短歌に革新運動を起こした正岡子規の活動拠点、台東区根岸ニ−五−一一の都指定史跡子規庵は夏、冬季の休庵期間を除いて月曜日以外の毎日公開されている。

 子規は、この木造平屋建てニ十坪余りの家に明治二十七年二月一日から数え三十六歳で亡くなる同三十五年九月十九日まで住んだ。借家だった家は、本郷にあった加賀藩の (さむらい) 屋敷を維新後、移築したもので、彼の死後は母の八重や妹律が住み、弟子たちを中心とする子規旧友会が二人を援助、庵の存続に努めた。

 中でも献身的だったのが、「余の内へ来る人にて病気の介抱は鼠骨一番上手なり 鼠骨と話し居れば不快のときも遂にうかされて一つ笑ふやうになること常なり」と子規の『仰臥 (ぎょうが) 漫録 (まんろく) 』にある寒川 (さむかわ) 鼠骨 (そこつ) である。彼は、率先して『子規全集』の編纂・刊行で旧前田侯爵家からの土地・家屋買収資金を捻出する一方、後の戦災時に子規の遺品を守った土蔵を造ったりした。

 本名陽光 (あきみつ) の鼠骨は子規と同じ松山の出身で、同じ子規の高弟河東碧梧桐とは幼馴染だったのが縁で子規を知るようになった。その結果、子規の文芸活動だけでなくその人間にすっかり傾倒していたことが著書『正岡子規の世界』(青蛙房、六法出版社)などから読み取れる。

 子規と同じ日本新聞の記者時代には、足尾鉱毒事件の取材に当たったこともある。昭和三年から二十年まで子規庵の隣に住み、同年四月の空襲で庵と共に罹災した。戦後は庵の再興に奔走、二十六年五月、現在の庵が完成した。

 彼は庵主としてここに住み、同二十九年八月十八日、子規と同じ「病牀 (びょうしょう) 六尺」の六畳間で死去した。七十八歳。葛飾区亀有五−五四−ニ五見性寺 (けんしょうじ) に葬られたが、庵の庭に「三段に雲南北す今朝の秋」の句碑が建っている。

(掲載号:11月12日号)