週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

使命を 終えた 蝶型弁

 首都の給水施設の中枢だった淀橋浄水場が、その使命を終えたのは昭和四十年(一九六五)三月だった。『淀橋浄水場史』に、その日の手記を担当技師が残している。

 <三月三一日午前一〇時五〇分、扇田水道局長さんがおいでになり、紺野ポンプ係長の合図で私が制水弁を閉じ、局長さんが紅白のリボンの付いた操作ハンドルを廻し(中略)配水に終止符を打ちました>

 明治の新時代に入って、東京は江戸時代そのままの水道設備近代化を迫られた。ことに明治十九年(一八八六)、コレラが流行して東京でも旧市内を中心に九千八百人の犠牲者が出た。

 当時は東京市内へは玉川上水の水が江戸時代以来の木樋で送られていた。行政区画の上でも三鷹から西の多摩地区は神奈川県に属していた。このため、まず多摩地区を現在のように東京に編入して水源を確保した。続いて玉川上水を新しい浄水場に引き入れて濾過したうえ、木樋ではなく鉄管で市内へ送ることになった。その濾過池として建設されたのが淀橋浄水場である。

 建設に着手したのは明治二十五年(一八九ニ)で、明治三十一年には給水が開始された。その後、関東大震災や第二次大戦の戦火を受けて東京の市街地も人口も急速に西郊に拡大し水道拡張事業に追われたが、東村山浄水場(東村山市)が多摩川からも利根川からも原水を引き入れられるようになって、昭和四十年淀橋浄水場はその使命を終えた。

 広大な浄水場跡地は、東京の新都心用地となり、超高層ビルの街へと面目一新した。

 住友三角ビルの愛称で親しまれている新宿住友ビル(52階)北西角広場に、かつて浄水場で使われていた内径一〇〇〇ミリの鉄管に止水バルブの蝶型弁がはめ込まれている実物のモニュメントが置かれている。

(掲載号:11月05日号)