週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

幕府に 殉じた 川路聖謨

 嘉永六年(一八五三)七月、前月のアメリカの黒船の浦賀来航に続いてロシア使節プチャーチン率いる軍艦四隻が長崎に来航、和親・修好通商条約締結などを求めた。幕府は露使応接掛四人を全権として派遣、翌安政元年末、下田で日露和親条約が調印されたが、長崎での交渉で独り活躍したのが川路聖謨 (かわじとしあきら) である。

 「聖謨はプチャーチンに一歩も譲らず奮闘した。しかも、強硬論を吐いたかと思うと、つぎの瞬間にはユーモアを交えて相手を煙に巻くといった風に、臨機応変、当意即妙の会話をあやつり、それがまたなかなか見事だったらしい」

 川田貞夫著『川路聖謨』(吉川弘文館)の一節で、その人柄はロシア側にも高く評価されていたともある。

 聖謨は享和元年(一八○一)豊後日田(現大分県日田市)の幕府代官所の役人の子として生まれたが、父が江戸に出て幕府の徒士 (かち) になって知り合った御家人の川路家の養子となった。数え十八歳で幕府に出仕し、勘定吟味役を始め、佐渡・奈良・大坂町奉行などを歴任して嘉永五年、勘定奉行兼海防掛となった。

 エリートではない、たたき上げの努力の人だった彼にとって、日露交渉は生涯の晴れ舞台だった。その後は一橋派と見られて井伊大老によって左遷され、文久三年(一八六三)外国奉行となったが、半年足らずで辞職した。

 官軍の江戸城総攻撃予定の慶応四年(一八六八、九月明治改元)三月十五日、番町の自宅でピストル自殺を遂げた。隠居後、三度の中風発作で半身不随の聖謨には切腹が不可能だったからだが、晒で巻いてあった腹には短刀による傷が付けられていたという。

 江戸幕府に殉じた彼は今、台東区池之端ニ−一−ニ一の大正寺 (だいしょうじ) に、賢夫人の名が高かったさと子と共にひっそり眠っている。

(掲載号:10月15日号)