週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
芭蕉の 師が眠る 正慶寺
江戸幕府に殉じた
十代半ばから京都で松永貞徳らに俳諧や和歌、古典を学び、俳諧に古典の知識を導入して新風を開いた。芭蕉も門人の一人で、門弟には主に『伊勢物語』や『源氏物語』などの講義を行ったという。著書に『伊勢物語拾穂抄』『徒然草文段抄』『湖月抄』などの古典注釈書がある。
こうした古典研究の傍ら京都五条の新玉津島神社の神官にもなったが、元禄二年(一六八九)、数え六十六歳のとき、突然幕府の歌学方として息子の湖春と共に江戸に召しだされ、神田小川町に屋敷を与えられた。和歌に堪能な徳川一門の大名松平大和守直矩の推挙によるものだった。
以後、湖春に先立たれる不幸はあったが、歌学方として順調に出世して幕府から法印の称号や再昌院の号を与えられた。また『江戸名所図会』に
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そこは後年、水戸徳川家の分家の屋敷の一部になっていたようだが、辺りはホトトギスの名所で「関口てふ所に別荘を求めはべり」との詞書きのある「 住みつかぬ我宿とはぬ時鳥もとのあるじをしたひてやなく」という彼の歌も載っている。ちなみに、そこは芭蕉に関係の深い関口芭蕉庵の近くでもある。
李吟は宝永二年(一七六五)八十二歳の天寿を全うした。墓石には「再昌院法印李吟先生」とあり、側面に「花もみつ
(掲載号:10月22日号)
