週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
江戸の 名残の 広小路
「上野広小路」は、今、東京メトロの駅名と、その地上の中央通りと春日通りが交わる交差点名になっている。ただ通称としては、デパートの松坂屋前辺りから上野公園の正面入り口付近までの中央通りをそう呼んでいる。
昔は「下谷広小路」といわれたことのほうが多く、安藤広重の『名所江戸百景』にもその名で描かれている。松坂屋の前身、瓦葺きの大きな呉服店いとう松坂屋前を揃いの傘をさした花見客らしい集団が上野の山に向かっている絵柄である。
『武江年表』元禄十一年(一六九八)八月の項に、寛永寺の根本中堂や仁王門などの建物が完成して境内は参拝者で大混雑しているとの記事に続き「門前の町屋をひらき、広小路とせられしもこの時なり」と記されている。
これについて江戸・東京の歴史に詳しい小森隆吉氏は『台東 下谷町名散歩』で、幕府が作った寛文十一年(一六七一)版の江戸の地図に「上野広カウシ」という書き入れがあることから、上野広小路は明暦三年(一六五七)の大火後に将軍の寛永寺参詣の御成り道を拡張して造られたとみなせる、と書いている。
広小路は、もともと火災予防・火除けのために造った拡張道路である。江戸の大半を焼き尽くした振袖火事とも呼ばれた明暦の大火後、幕府はこの広小路を何個所か江戸市中に造成した。
この内、よく知られているのが上野の他、浅草、両国の広小路で、江戸の三大広小路といえる。浅草は今の雷門通り、両国は両国橋西畔である。
だが現在は、上野以外は広小路を付けて呼ぶことはまずない。これに対し、上野広小路は明治二年から昭和三十九年まで中央通りの東側、現上野三・四丁目の一部の町名にもなり、今も江戸の名残を伝えている。
(掲載号:09月17日号)
