週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

名所江戸百景 新宿・角筈 熊野神社

 江戸時代後期の浮世絵師、歌川広重の『名所江戸百景』シリーズのなかに、今の西新宿を描いた「角筈 (つのはず) 熊野十二社 (じゅうにそう) 俗称十二そう」がある。

 大きな池の周囲を松などの林が取り巻き、池のほとりには水面に床を張り出した茶店がいくつもあって、客が涼をとっている。当時、江戸郊外散策の名所だったのである。それにしても、角筈、十二社と、いずれも珍しい地名で、広重も「俗称十二そう」と仮名の読みを入れている。

 池は埋め立てられたが、熊野神社は今も西新宿の新宿中央公園内に鎮座している。神社前のバス停の名は今も「十二社池 (じゅうにそういけ) (した) 」である。戦国期の柏木 (かしわぎ) 角筈 (つのはず) は、江戸初期に柏木村と角筈村になった。

 角筈は戦国期以来の古い地名で、由来には諸説がある。まず、地形が内藤新宿から西新宿へかけて角製の矢筈 (やはず) によく似ていたからだという説で、いかにも戦国時代らしい。また、この地域の開発者で大地主だった熊野出身の渡辺興兵衛が角筈と呼ばれたからという説。仏教用語で在俗の男性仏教信者を優婆塞 (うばそく) と呼んだが、仏教用語を避ける忌み言葉で優婆塞を角筈と言い換えていたというのである。

 角筈の熊野神社の社伝によると、神社は室町時代の応永年間(一三九四−一四二八)に中野長者と呼ばれた紀州出身の鈴木九郎が故郷の熊野三山から十二所権現を勧請して相殿 (あいどの) (同じ社殿に祀ること)に祀ったので、十二そうが通称になったといわれている。

 社殿の東脇に、文政三年(一八二○)に奉納された水鉢がある。そこに江戸時代後期の有名な狂歌師大田蜀山人の書が刻まれている。蜀山人は学殖にも優れ、その達筆の銘文に<熊野三山 十二叢祠 洋洋神徳 監於斯池>とある。熊野三山の神々の広大なご神徳をこの池にみ監る、という意味のようである。

(掲載号:09月03日号)