週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

初駅伝 参加は ニチーム

 日本とういうより世界初の駅伝競争である「奠都 (てんと) 記念東海道五十三次驛傳徒歩競走」は大正六年四月、京都三条大橋をスタート地点とし、ゴールは開催中の東京遷都五十年記念博覧会場の不忍池畔として読売新聞の主催で行われた。

 全長五百十六キロを二十三区間に分け、日程は三日。参加したのは、早稲田大学・東京高等師範学校・第一高等学校生を中心とする関東軍と、愛知県立第一中学校生を中心に選抜された関西軍の二チームだった。たすきはまだなく、関東軍は紫、関西軍は赤のユニホームで走った。

 二十七日午後二時、レースの火蓋が切られた。競技は昼夜の別なく続けられた。

 両軍選手の特徴は年齢にあった。関東軍は数え十九歳の一人以外は二十代前半が中心だったのに対し、関西軍は十代後半が主力で、中に十五歳の中学二年生が二人もいた。

 ところが、最終区間の川崎−東京間はこれが極端に逆となった。関東軍の二十七歳の金栗四三 (しぞう) 選手に対し、関西軍は何と五十二歳の日比野寛選手だった。

 金栗は、日本人が初めてオリンピックに出場した一九一二年(明治四十五年)のストックホルム大会のマラソン選手である。日比野は当時のマラソン界のベテランで前愛知一中校長、現職は代議士だった。しかも彼は、前区間の選手が疲労で倒れそうになったためスタート地点より六百メートル余り前から交代して走った。

 二十九日午前十一時三十四分、金栗が不忍池畔をほぼ一周してゴールイン。約一時間半遅れて日比野がゴールしたが、三十日付けの読売新聞は「スパルタの古勇士の如きその姿は、緊張を持して調子も崩れることなく、砂塵を蹴り傳令の自轉車を追ひ越すべき勢で、午後一時二分決勝線を切つた」と「老勇士」の健闘を讃えている。

(掲載号:08月27日号)