週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

江戸の事件 淀橋水車の 大爆発事故

 『江戸名所図会』の挿絵は、現代の記録写真を見るように、正確で、たとえば新宿区の淀橋なども江戸時代後期の姿を、百数十年後の今も、こまかく読みとれるほどである。

 ここを流れている神田川は三鷹市の () 頭池 (かしらいけ) を水源とし、中野区南部で善福寺川 (ぜんぷくじがわ) 、新宿区北部の下落合で妙正寺川 (みょうしょうじがわ) を合わせ、江戸時代には神田・日本橋などに水を供給した江戸の水道である。このため水源から文京区関口までを神田上水、関口から新宿区飯田橋付近までを江戸川、その下流を神田川と呼びならわしてきたが、昭和四十年に、全体が「神田川」という名称に統一された。

 『江戸名所図会』の挿絵を見ると、青梅街道 (おうめかいどう) を往来する武家や町人が克明に描かれ、神田川に架けられた大きな橋、さらに神田川の助水堀として玉川上水から引かれた水流があって小さな橋が架かっている。

 よく見ると、手前にもう一本細い流れがあり、草葺き屋根の屋内で大きな水車が回っている。この小流は農業用に神田川から引かれた用水路で、ふだんは付近の人たちが水車を動力に米や麦を挽いていたという。これが、現在も淀橋の橋柱にシンボルマークとして刻まれている淀橋名物の水車なのである。

 幕末の江戸はアメリカのペリー提督が率いる黒船の来航で騒然とするが、あわてた幕府は、こんな淀橋の水車にまで海岸防備の火薬作りを命じている。危険極まりない作業で、不幸にも安政元年(一八五四)六月、作業員の手違いから火薬の大爆発という事故が発生した。

 作業員の一人が死亡しており、付近の民家もまばらな時代だったのに、五十人あまりのけが人が出た。『武江年表 (ぶこうねんぴょう) 』には、爆発音が近辺に鳴り響いたと記録されているから、江戸の重大ニュースだったことは間違いない。

(掲載号:07月30日号)