週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

甲州街道の 新しい宿 だから新宿

 吾輩 (わがはい) は猫である。名前はまだ無い。/どこで生れたか (とん) と見当がつかぬ>

 これは夏目漱石の『吾輩は猫である』の書き出しである。新宿の場合もよく似ていて、生まれたときは名前はまだなかった。しかし、生まれた経緯はよくわかっている。

 新宿は、その名の通り、江戸時代の元禄十二年(一六九九)に甲州街道の日本橋と高井戸の間にできた新しい宿場である。だから、名前も新宿 (しんじゅく) ということで、わかりやすい。

 しかし、新しい宿場というだけだから、似た地名は多い。現に東京北部を東西に走る水戸・佐倉道には古代からの歴史を持つ新宿 (にいじゅく) (葛飾区)があり、甲州街道の新宿のずっと西の先の府中市には新宿 (しんしゅく) があり、さらに旧東海道筋にも新宿 (しんしゅく) (現・大田区萩中、西糀谷 (にしこうじや) )がある。こちらは発音の濁らないシンシュクである。

 われらの新宿の場合、すでに触れたように、日本橋と高井戸のあいだにできた新しい宿場だった。

 日本橋と高井戸のあいだは四里もあった。一里が約四キロだから十六キロである。東海道の品川も、中仙道の板橋も、最初の宿場は日本橋から二里ほどのところにある。甲州街道も中ほどに宿場が欲しいと浅草の名主、高松喜兵衛らが幕府に願い出た。五千六百両の上納金を添えることで、内藤家(信州高遠藩)の屋敷の一部の使用許可が出た。内藤氏は、徳川家康が駿府(静岡)から江戸に移されたとき、いちはやく江戸と甲府を結ぶ甲州街道の要点を確保して家康を安堵させ、その功績で広大な屋敷地(現在の新宿御苑一帯)を拝領した。その内藤邸の一部が提供されたので、「内藤新宿」が通称となり、略して新宿になったのである。

 浅草の名主、喜兵衛は高松喜六と改名し、新宿の名主になり、内藤新宿の宿場つくりに努めた。

(掲載号:07月16日号)