週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

講談 講釈 太平記読

 江戸時代から現代に伝わる日本の話芸としては、落語の他に講談がある。高座に置かれたと釈台と呼ばれる台の前に座り、それを張扇でときどき叩きながら歯切れよく物語を語ってゆく芸である。

「講談とは近世の稱へ方で、本來は講釋である。軍談や物語、記録の類を講義讀釋するの (ゆい) で、その初めは慶長の頃、赤松法印と云へるものがあつて、徳川家康公の御前で、源平盛衰記、太平記等を度々進講し、續いて諸侯にも召されて軍書を講じたのがそもゝの濫觴 (はじまり) であると云ふ」

 関根黙庵著『講談落語考』(雄山閣出版)の「太平記讀から講談に」の項の一文である。この本は大正十三年、『講談落語今昔譚』の書名で出版されたものが昭和三十五年、改題されて復刊された。講談、落語の成り立ちや、その芸人の人物像などの詳しい考証が記載されている。

 著者は芸能研究家で、同書は関東大震災で発行が不可能になり、失意のうちに死去した。それを兄の国文学者正直らの奔走で出版の運びとなった経緯がある。

 その同書に、先の一文に続き「されば世人これを呼ぶに太平記 (よみ) (もっ) てし、これに (なら) ふ亞流をも生じた。講談師は實にその源をこれ等太平記讀に發したのである」とある。

 講談師という呼び方は、落語家と比べ、いかめしい感じがする。それだけ講談は落語の軟派に対して硬派ともいえるが、世話講談という分野もあり、歌舞伎の『与話情浮名横櫛 (よわなさけうきなのよこぐし) 』通称『切られ与三』は、講談を脚色したのものである。

 かつては落語以上の人気があり、講談専門の寄席も多かった。『講談落語考』に明治初年の東京の主な講談定席が十八列挙されていて、その中に「下谷本牧」という席がある。後の上野の本牧亭で、これについては、改めてご紹介する。

(掲載号:06月25日号)