週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

浅草に 生れた 万太郎

 「浅草の作家としてはまず久保田万太郎。他の作家たちがエトランジェとして浅草を観察しているのと異り、独自のスタイルで生れ育った浅草を内面から描いたいわゆる“万太郎調”芸術」(槌田満文著『東京文学地図』=都市出版社)

 劇作家・小説家・俳人、さらに演出家でもあった久保田万太郎(一八八九−一九六三)は、戯曲『大寺学校』、小説『春泥』『花冷』など終生、東京下町の人々の生活や人情などを描き続けた。昭和三十二年、文化勲章を受章している。

 「浅草で、お前の馴染 (なじみ) のふかいところはどこだときかれれば広小路の近所とこたえる (ほか) はない。なぜならそこはわたしの生れ在所である。明治二十二年田原町で生れ、大正三年、二十六の十月までそこに住みつづけたわたしである」『大東京繁昌記』(毎日新聞社)に収録されている久保田万太郎の「雷門以北」の書き出しである。

 同書は昭和二年、毎日新聞の前身の東京日日新聞夕刊に連載された、当時の文学者たちが昭和を迎えたばかりの東京の姿を描いた文を収めたものである。万太郎の他、高浜虚子、田山花袋、芥川龍之介、小山内薫などそうそうたる顔ぶれで、「雷門以北」は小村雪岱 (せつたい) が挿絵を担当して六月三十日から七月十六日まで掲載された。

 今、田原町の名は地下鉄の駅名や小学校名に残っているだけだが、雷門通りの南側歩道を西へ進み、国際通りに突き当たる手前の横丁の南西角、雷門一−一五に「久保田万太郎生誕地」の石碑が建っていて経歴の他、昭和二十五年の十五夜、たまたま浅草にきて詠んだという「ふるさとの 月のつゆけさ 仰ぎけり」の句が刻まれている。

 氏子だった浅草神社境内には「竹馬や いろはにほへと ちりぢりに」の句碑がある。

(掲載号:05月21日号)