週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

池の端 の御前 福地桜痴

 明治の半ば、不忍池のほとりに家を構えて「池の端の御前 (ごぜん) 」と呼ばれていた人がいた 。茅町・現池之端一丁目に住んでいた福地桜痴 (おうち) (一八四一−一九〇六)である。

 長崎の医者の家に生まれた本名源一郎の彼は、幕府外国方に仕え通訳を務めて外遊を重ねた。明治維新後は新聞記者・新聞経営 者・小説家・劇作家など多くの肩書を持った人だったが、後半生は劇界とのつながりが深かった。

 明治二十二年、桜痴は、当時の大劇場の新富座や市村座などに出資していた金融業の千葉勝五郎の協力を得て歌舞伎座を創設し ている。同時に劇作に手を染めるようになり、大名優九代目市川団十郎と結んで多くの芝居を書いた。

 当時の団十郎は古い芝居を嫌って史実に即したいわゆる活歴に没頭していて、桜痴はそれに協力した。その作品は、『春日局』 『侠客春雨傘』などの他、舞踊劇『鏡獅子』『素襖落 (すおうおとし) 』『大森彦七』など約四十にのぼる。

 今もこれらは時折上演されるし、『鏡獅子』などは人気の踊りである。だが、彼に対する評価はあまり高くない。

 「劇界では団十郎と結んでの活歴劇により過渡的役割を果したに止まる」(東京堂版『藝能辞典』)

 それに、晩年は恵まれなかったようである。彼の死の二年前の明治三十七年二月十五日号の『女学雑誌』に、ある人が当時、築地に住んでいた彼の家を交番で尋ねたら、巡査に「福地源一郎というのは、何商売の人ですか」と反問されたと『明治東京逸聞史』にあり、同書は「嘗ての『池の端の御前』も、晩年には見るかげもなかった」と記している。

 今、千束四丁目の吉原神社下社入り口の石柱に明治の新吉原大門の柱に掲げられていた桜痴作の題辞「春夢正濃満街桜雲 (しゅんむまさにこまやかなりまんがいのおううん) 」「秋信先通両行燈影 (しゅうしんまずつうずりょうこうのとうえい) 」が刻まれている。

(掲載号:05月07日・14日合併号)