週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

戦前の 放浪の 画家碑

 「放浪の画家」というと、戦後では「裸の大将」とも呼ばれた山下清(一九ニニ−七一)が知られているが、戦前にもそういわれた洋画家がいた。小説や短歌も手掛けた長谷川利行 (としゆき) で、奔放な筆遣いで東京の下町風景や人物を描き日本のゴッホにもたとえられたが、貧困と病気に苦しみながらの一生だった。

 明治二十四年、京都に生まれた彼は大正十年に上京、画家の岩田専太郎、詩人の矢野文夫等と知り合った。同十二年、関東大震災を歌った歌集『火岸』を出版して京都に帰った。

 同十五年、再び上京して画業に専念して帝展、二科展などに次々入選した。しかし、経済的には恵まれず、日暮里や浅草に仮住まいをしながら浅草や千住、荒川放水路(現荒川)のほとりなどを放浪しながら絵を描き続けた。

 この間、胃病に苦しみ、昭和十五年、三河島の救世軍宿泊所に住んだが、三河島駅付近で倒れ、行路病者として東京市立養育院板橋本院に収容され、同年十月、胃がんのため死去した。このとき、絵を含む遺品の総ては焼却されたという。

 今、不忍池弁天島の北東の一隅に、画家熊谷守一書の自然石の「利行碑」と、同有島生馬書の「人知れず朽ちも果つべき身一つの いまがいとほし涙拭わず」「己が身の影もとどめず水すまし 河の流れを光りてすべる」という利行の歌碑が建っている。

 さらに、彼の経歴などが書かれた説明板には、死の直前に矢野文夫に出した手紙の中身が記されている。

 「至急來テクレナイト死亡スル、動ケナイノデス」などという文面で、そのとき氷砂糖などを忘れずに持ってきてと頼み「何カ甘イ菓子一折リ下サイ。死別トシテ」ともある。

 まさに絵に描いたような不遇さで、暗然とするばかりである。

(掲載号:04月30日号)