週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
等光寺 啄木の 歌碑由来
地下鉄銀座線の田原町駅から国際通りに出る。西側歩道を北へ五十メートルほど行ったところの横丁を左に入った先の四ツ角の北西に、寺が建っている。歌人石川啄木(一八八六−一九一二)の葬儀が行われた等光寺(西浅草一−六−一)である。
同寺は、啄木の友人で歌人の土岐善麿(一八八五−一九八〇)の生家にほかならない。彼は読売、朝日の新聞記者として活躍したほか国文学者でもあり、戦後は文化人として名を馳せたが、啄木への友情は終世厚かった。没後は、当然、同寺に眠っている。
こうしたいきさつについては、『東京の散歩道』(現代教養文庫、窪川鶴次郎著)に詳しく載っている。
啄木は明治四十五年四月十三日、小石川久堅町(現文京区小石川)の借家で亡くなり翌々日葬儀が行われた。遺骨はしばらく自宅に安置されたが、間もなく等光寺に預けられた。東京生活にあてのない未亡人節子たち遺族の身の振り方が付かなかったためで、節子の実家があった函館に移されたのは、ほぼ一年後だった。今、夫妻の墓は、同市の立待岬にある。
等光寺には、啄木生誕七十年の昭和三十年、彼の歌碑が建てられた。門を入ったすぐ右手にある縦一メートル、横一・五メートル余りの黒大理石の碑で、彼の歌集『
この碑ができてからしばらくは、見学者が多かったようである。昭和三十九年発行の『東京の散歩道』には「歌碑の見学に日曜なんか団体がよく来ること、数字的には学生がいちばん多く、昨日(日曜)なんか三校来たとのことである」と記されている。
今は、見学者は余りないように見受けられる。
(掲載号:03月05日号)
