週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

浅草の 範囲を 考える

 昔から浅草寺の門前町として栄えている浅草の範囲は、どこまでと考えたらよいのだろうか。東京都が今の二十三区になる前、浅草区があった。大ざっぱには、それが浅草と定義してよいのかもしれない。

 「現在の台東区東半部の浅草・元浅草・浅草橋・柳橋・駒形・三筋・小島・蔵前・花川戸・今戸・橋場・清川・千束・日本堤などを含む範囲。区名の由来は中世以来の地名による」

 『角川日本地名大辞典・東京都』に記載されている、旧浅草区の区域である。

 この中で柳橋などは、浅草というとちょっと違和感があるかもしれないが、江戸幕府編纂の『御府内備考』の浅草の範囲ともほぼ一致する。

 「浅草は御城の (うしとら) に当り、浅草橋外より北の方橋場・新鳥越に及び、西は下谷に接し、東は大川に限れり。是今浅草と唱るの地域なり」

 もっとも同書は、その昔、鳥越・橋場・浅草はそれぞれ別区域だったのだろうと記している。また浅草は、古くは千束郷の内だったようだとし、その根拠として、今も伝法院に保存されている至徳四年(一三八七)の鐘の銘に「豊島郡千束郷金龍山浅草寺」とあることを挙げている。時代が下ると千束は浅草の内になり、両者の関係は逆転した。

 「されど浅草の地名も古くより伝ふる所にして、【東鑑】等の書にも載たり」とし、各種の本の浅草に関する記述を列挙している。

 「往古武蔵野よりつづきて草深き原なりしが、四谷大木戸の辺より桜田辺、北は牛込・本郷・湯島まで。又此辺平原なれども民家所々にありて、おのずから草も浅き故浅草といへり」

 これは、享保十七年(一七三二)に出版された俳人菊岡沾涼 (せんりょう) 著の『江戸砂子』の引用で、浅草は単に浅い草原を指す言葉が、いつの間にか地名になったらしい。

(掲載号:02月26日号)