週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
海苔が 採れた 浅草の海
浅草海苔は、今も乾し海苔の総称のようになっている。その昔、浅草近辺で生産された海苔の名前が受け継がれているわけだが、実際に浅草で海苔が採れたのは、江戸時代初期までだったらしい。
「此川古は入海なりし由は観音の縁起にも載たり。又国初の頃は此川にて海苔を取しなどもむかしよりいひ伝へたり」
『御府内備考』の「浅草川」の項の記述で、昔は浅草辺までが江戸湾の入り海で、そこで海苔が採れた、と言い伝えられているというわけである。国初は、ここでは家康江戸入り、または幕府の初めという意味だろう。
『江戸名所図会』も、「浅草川」の項で「
『御府内備考』はまた、昔は浅草の辺りが隅田川の河口で海苔が採れ、今も(江戸の)名産となっているという『江戸図説』という本の記事を引用している。さらに、付近に漁師も多く住んでいたが、浅草寺近くの隅田川が禁漁となったので、漁師たちは品川や大森に移った、と記している。
海苔の生産も同時に大森辺の江戸湾・東京湾に移り、昭和の半ばまでそこで浅草海苔が生産された。産地が移っても、浅草海苔という名称は変わらなかった。
それに、浅草を離れた漁師たちだったが、浅草観音や浅草神社に対する信仰は子子孫孫に伝えられた。
江戸時代の三社祭(旧暦三月十七、八日)では、氏子地域を巡行した三基の宮神輿は最後に浅草御門(現浅草橋)から船に乗って帰る(船渡御)のが恒例だったが、大森の漁師たちは船を漕ぎだして神輿の乗船場所に集まり、神輿に供奉した。
(掲載号:02月12日号)
