週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

浅草と 都電は 深い関係

 浅草へ行く乗り物として、かつては都電があった。浅草観音の周辺には、「浅草」「雷門」「田原町」「隅田公園」「聖天町」など多くの都電停留所が設けられていた。今となっては想像もつかないが、吾妻橋の上をチンチン電車が走っていたのである。

 現在、都内の交通機関は地下鉄が主流となっている。平成二十年末で東京メトロ、都営を合わせて十三系統あり、総延長は三百キロ余になる。

 これに比べ、都電は最盛期の昭和三十年代前半でも営業距離は二百十キロ余だった。だが路線が四十一系統もあるきめ細かさと、路上で乗り降りができる便利さは地下鉄をしのいでいた、といえるだろう。

 その都電の歴史は市電から鉄道馬車にまでさかのぼれるが、東京に路面電車が初めて走ったのは明治三十六年だった。東京電車鉄道会社(東鉄)の経営だったが、同年に東京市街鉄道会社(街鉄)、翌年には東京電気鉄道会社(外濠線)が設立され、三社が競うように路線を開発した。

 同三十九年、三社は合併して東京鉄道会社となり、五年後にこれを東京市が買収して市電が誕生した。このときというより、既に三社時代になって間もなく、後の都電網の大部分が形成されていた。

 その証拠の一つが、明治三十八年にできた石原和三郎作詞、田村虎蔵作曲の『電車唱歌』である。三社の路線風景を歌ったもので、五十二番まであり、都電の沿線風景のほとんどと重なっている。

 ただ、その歌で「はや目の前に十二階/雷門より下りたてば/ここ浅草の観世音」など浅草を歌った歌詞が五番もある。これに比べ、銀座は二番だけ。浅草は、当時の東京の最大の盛り場で、路面電車が重要な交通手段だった。

 この系譜の都電も昭和四十七年、荒川線十二・ニキロを残して全廃された。

(掲載号:01月22日号)