週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

女房も 三社の 氏子

 昭和前期の歌舞伎の名優・初代中村吉右衛門は、浅草と縁の深い人だった。彼は明治十九年、浅草象潟 (きさかた) 町(現浅草四丁目)に三代目中村歌六 (かろ) の長男として生まれた。歌六は大阪出身の役者だったが、母は芝居町の猿若町の芝居茶屋万屋吉右衛門の娘だった。

 「父は上方、母は江戸、芸の教え方が違っていた」(『吉右衛門日記』=演劇出版社)

 母お兼は劇聖とまでいわれた明治の名優九代目市川団十郎の信奉者で、子供に上方仕込の芸を教える夫に常に反発していたという。後年、吉右衛門が団十郎系の役のほかに上方系の役もこなしたのは、こんな両親を持ったからかもしれない。

 もっとも彼は子供のときは役者が嫌いで、多くの歌舞伎役者が経験する子役はほとんどやっていない。初舞台は明治三十年、数え十二歳だった。芸名は母方の祖父の名をもらって中村吉右衛門を名乗った。

 歌舞伎役者は生涯に何度か名前を変える例が多いが、昭和二十九年に亡くなるまでその名のままだった。それで芸術院会員、文化勲章受章者になって吉右衛門の名を大名跡としたのだから、近代の歌舞伎界では珍しい存在だったといえるだろう。

 彼は現駒形一丁目にあった浅草座などで上演された十代前半くらいの子供だけが舞台に出る子供芝居で頭角を現した。大正になると、二長町(現台東)の市村座で、終世の名コンビでありライバルでもあった六代目尾上菊五郎と共演して「菊吉」と称揚された。

 余技として高浜虚子に師事した俳句は、玄人はだしだった。「相ともに流し合ひたる汗思ふ」は、菊五郎が亡くなったときに詠んだ句である。

 女房も同じ氏子や除夜詣 妻千代も浅草生まれだったことを詠んだもので、今、この句碑が三社・浅草神社境内に建っている。

(掲載号:01月01日・08日合併号)