週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

公園地 六区の 昔と今

 明治六年、浅草寺境内が浅草公園地となったが、公園としての整備・築造が始まったのは同十五年からだった。浅草寺火除け地だった西方の田圃の埋め立て、それに伴う大池(瓢箪池)の造成などで、翌々年、園地は第一区から六区までに分けられた。

 一区は浅草寺本堂周囲、二区は仲見世、三区伝法院敷地、四区大池付近、五区浅草寺奥山・花やしき周辺、六区興行街という分け方だった。なお一時、公園南東部が七区に指定されたが、間もなく除外された。この中で、最も名を馳せたのは、六区である。

 「六区という名も、遂に消えるらしいが、昔の東京人は、この名に親しみ、ここあるが故に、浅草の魅力を感じたのである。その代り、六区のみを知って、他に区のあるのを知らない」(獅子文六著『ちんちん電車』=河出文庫)

 浅草公園地は昭和四十年七月まで正式な町名として存続したのだが、六区以外はほとんど無視されていたようなものだった。

 六区は初め、奥山に集中していた小屋掛けの見せ物などを一括して移転した。そこに明治三十六年、日本で初めて活動写真を上映した電気館が出現して人々を熱狂させた。

 以来、次々に映画館が開場した上に、歌劇も上演されるようになった。関東大震災後もいち早く復興、昭和初年には約三十の活動写真館が林立し、雑踏の中に各館の呼び込みの声が飛び交って喧騒を極めたそうである。

 現在、かつての六区映画街で、映画館をさがすのに苦労するほどその数がわずかで、仲見世通りなどと比べ人通りも少ない。それでも映画館が並んでいたメーンの南北の通りには「六区ブロードウェイ」、東西の横の通りに「六区通り会」「六区花道商店街」の名があって、かろうじて「六区」が残っている。

(掲載号:12月25日号)