週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
黙阿弥を 名乗った 真意は
歌舞伎作者の河竹黙阿弥(一八一六−九三)は、生涯の大半を浅草寺子院の正智院地内に住んで「
明治を迎えると、従来の歌舞伎作品は史実無視の荒唐無稽な芝居と批判されるようになり、その代表者ともいえる黙阿弥、当時の二代目河竹新七への風当たりが強くなった。彼は同十四年十一月、東京・新富座で引退興行を行い、黙阿弥と改名した。
この黙阿弥名について、彼は敢えて語らなかったが、「元の木阿弥」をもじったものであることは明らかである。「木」を「黙」にしたのは沈黙を守るという意味だろう。従って作者から素人に戻って静かに暮らすという意思を示すためにそう名乗ったというのが、長い間定説になっていた。
だが、これを完全に否定したのが、黙阿弥の曾孫に当たる早大名誉教授の河竹登志夫氏である。河竹氏は黙阿弥晩年の手記『著作大概』に「以来は何事にも口を出さずだまって居る心にて黙の字を用ひたれど、又出勤する事もあらば元のもくあみにならんとの心なり」の一文を見つけ、黙阿弥の百回忌を迎えた平成四年、別冊『文藝春秋』、翌年、単行本『黙阿弥』(文藝春秋)で、このことを明らかにした。「簡潔な文言だが、これはあきらかに、いまは黙るけれども『元のもくあみ』すなわち現役作者に戻ってまた『出勤』することもあり得るという意味にしか解しようがない」
黙阿弥は、作者復帰の意思を密かに抱きながら、心ならずも引退を表明した。結果はその思惑通り劇界は彼を必要とし、引退後もほとんど間を置かず、彼は芝居を書き続けた。黙阿弥は江戸っ子らしからぬ粘り強い意思と自負心に富んだ人だった。
(掲載号:12月18日号)
