週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

地内の 師匠 黙阿弥

 歌舞伎の集大成者で「狂言作者の氏神」とまでいわれた河竹黙阿弥は、生涯の大半を浅草で過ごした。文化十三年(一八一六)、日本橋生まれの黙阿弥は明治二十六年(一八九三)、本所南二葉町(現墨田区亀沢)の家で亡くなるまでに三百六十編もの作品を世に出したが、そのほとんどは浅草の家で書かれたものだった。

 本名吉村芳三郎の彼が芝居作者になったのは、天保六年(一八三五)のことだった。作者名は初め勝諺蔵 (かつげんぞう) 、後に柴晋輔 (しばしんすけ) から二代目河竹新七を名乗り、明治十四年、黙阿弥と改名した。

 彼が芝から浅草に転居したのは、河竹登志夫氏著『黙阿弥』(文芸春秋)によると、新七になって二年後の弘化二年(一八四五)と推定されている。それより四年前の天保十二年の日本橋興行街の火災がきっかけで、天保の改革を進める老中水野越前守忠邦によって芝居小屋は浅草北部の猿若町に移転させられた。また、芝居関係者は劇場近くに住まなければならなかった。

 新七の転居も、それに従ったものだったのだろう。引っ越し先は「浅草寺の子院正智院の境内、寝釈迦 (ねしゃか) 堂のそばの小ぢんまりした二階家。屋敷者が住んでいた家で、土蔵と家作がついていた」(同書)

 翌年、浅草並木町(現雷門二丁目)の茶道具商大和屋源兵衛の娘琴と結婚した。やがて彼は正智院地内 (じない) に住んでいるので「地内の師匠」と呼ばれるようになる。ただ家そのものは慶応元年(一八六五)末の雷門の火事など、何度か火事に遭ったし、戸籍上花川戸に移ったことはあったが、明治十九年、本所に越すまでここに住み続けた。

 今、浅草寺仲見世の中ほどの横丁を東に入ると、神輿が飾ってある仲見世会館(浅草一−三十六−三)の正面横に「河竹黙阿弥翁住居跡之碑」が建っている。

(掲載号:12月11日号)