週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

江戸を 伝える 伝法院

 金龍山浅草寺の本坊・伝法院は、宝蔵門(仁王門)の手前西側の一画に建っている。その南端を西に折れる通りを伝法院通りといい、浅草公会堂などが建つオレンジ通りと交差する地点に通用門がある。本堂などが焼けた東京大空襲のときも被災を免れ、江戸時代の面影を今に残している。

 浅草寺発行の『図説浅草寺』によると、玄関、客殿などは安永六年(一七七七)、大書院は明治四年に建てられた。また、客殿には阿弥陀三尊が祀られ、その左右に徳川歴代将軍のうち十一代、浅草寺住職代々の位牌が安置されているそうである。

 こうした建物と共に江戸の姿を伝えているのが、庭園である。二つの心字池がある回遊式の庭園は広さ約一万平方メートル、江戸初期の茶人で造園家の小堀遠州(一五七九−一六四七)によって寛永年間(一六二四−四四)に築庭されたといわれる。人が込み合う盛り場の中心部にありながら、その静寂なたたずまいは、まさに別世界の感がある。

 書院前方の池畔には、「至徳 (しとく) の鐘」と呼ばれている高さ一メートルほどの釣鐘が置かれている。南北朝時代の北朝の年号至徳四年(一三八七)の刻字があり、元は別の寺にあったと推定されている。江戸時代には随身門(現二天門)北側の鐘楼にあったが、明治になって現在地に移された。

 鐘の近くには、古墳時代の石棺がある。長さ二・五メートル、幅一・二メートル、高さ七十五センチの棺は凝灰岩製で、明治初年、浅草寺本堂裏から出土した。浅草の歴史の古さを証明する貴重な遺物といえる。

 ただ伝法院は、ふだん一般公開されていない。拝観には寺の許可が要る。もっとも、「おたぬきさま」の鎮護堂のコンクリート塀の隙間から池を含む庭の一部を垣間見ることができる。手続きが面倒な人は、お試しを。

(掲載号:12月04日号)