週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
浅草寺 京伝の 机塚
江戸後期の戯作者山東京伝・本名岩瀬
山東京伝の名は、生涯のほとんどを過ごした住まいが江戸・京橋の南のたもとの新両替町、現銀座一丁目にあったことに由来する。そこが江戸城紅葉山の東方になるので山東庵、京橋のたもとで京橋の伝蔵、京伝というわけである。
彼は初め、北尾重政に入門して浮世絵を学び北尾
寛政の改革時の同三年(一七九一)、三十一歳のとき、著作が風俗を乱すとして手鎖五十日に処せられたりもした。だが、その後も中身を教訓的にするなどして作家活動を続けた。その傍ら、煙草入れの店も開いた。店主京屋伝蔵としての商才も確かなものだったようである。
文化十三年(一八一六)、五十六歳で脚気による急性の心臓障害で亡くなり、現墨田区両国の回向院に葬られた。その一年後、亡兄を偲んで弟の京山が、兄が寺子屋に入門したとき父から買ってもらい、生涯愛用した机を浅草寺の境内に埋め、その上に石碑を建てた。机塚である。
表面に京伝作の机に込めた思いを綴った『書案之紀』と「耳もそこね あしもくしけてもろともに 世にふる机なれも老いたり」の狂歌、裏面に蜀山人大田南畝撰の京伝の略歴が刻まれている。
「浅草寺に参詣するする現代人で、京伝の机塚(『碑は現存』。ただし碑面の所々破損)の碑(書案之紀。浅草神社の裏)をおとずれる人はすくない」(小池藤五郎著『山東京伝』=昭和三十六年、吉川弘文館発行)
台石を含め高さ一・八メートルほどの碑は、今も三社裏の浅草寺境内駐車場にひっそり建っている。
(掲載号:11月20日号)
