週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

三十三間堂 名残の 矢先稲荷

 京都のものを真似て寛永十九年(一六四二)に浅草に建立された江戸の三十三間堂は、元禄十一年(一六九八)の大火で焼失後、深川に再建された。だから、天保七年(一八三六)に出版された『江戸名所図会』には、三十三間堂は深川にあると記されているが、旧地にも触れている。

「浅草清水寺 (せいすいじ) の辺を、今矢崎と字するは、三十三間堂の旧地なればなり。その地今は町家となれり。俗間堂前と唱ふるも、三十三間堂の前と云ふべき略語なり」

 清水寺も同書に「新堀端 (しんぼりばた) にあり」とある。新堀は現在の合羽橋道具街の中央を流れていた堀で、同寺は今も合羽橋交差点の少し南の西側に、通りに面して建っている。浅草の三十三間堂は、この辺りというわけだが、実はこの近くに三十三間堂にゆかりの深い神社が残っている。

 清水寺の少し南を西へ入った松が谷二−十四−一に鎮座している矢先稲荷神社である。このお稲荷さんは、浅草三十三間堂ができたとき、堂の鎮守として祀られたのが始まりと伝えられている。

 矢先の名は、射術の稽古場・矢場に祀られていたからという。堂と共に焼失後も住民の願いで地域の鎮守として再建が許された。その後も何度か火災に遭ったが、そのつど復興して今に至っている。『江戸名所図会』にある「矢崎」は「矢先」のことだろう。

 では、同書に「同所(深川永代島)二町ばかり東の方にあり」と記され、広重の「名所江戸百景」にも描かれた深川三十三間堂はどうなったのだろう。明治五年、堂を有する東普門院が廃寺となって堂も取り壊されてしまった。

 同二年から昭和六年まであった数矢町 (かずやまち) は、堂にちなんだ町名で、今、富岡八幡の裏に建っている江東区立数矢小学校の校名に、三十三間堂の名残がある。

(掲載号:10月16日号)