週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

江戸にも あった 三十三間堂

 今、三十三間堂といえば、京都名所の一つ・蓮華王院の本堂の通称に他ならない。堂の長さが南北に六十四間五尺(約百十七メートル)あって、内陣の柱間が三十三あるところからそう呼ばれている。

 後白河上皇の勅願によって長寛二年(一一六四)建立されたが、建長元年(一二四九)焼失、現在の堂は十七年後の文永三年に再建された。江戸時代には、堂の西側で行われた通し矢(大矢数)が有名だった。

 実は、この三十三間堂を模した建物が江戸にもあった。東普門院の三十三間堂である。『武江年表』の寛永十九年(一六四二)の頃に「三十三間堂始て浅草に建つ」とあって、建立のいきさつを記している。

 「基立人新両替町弓師備後は、天海僧正につかへたる人なり。諸士稽古のため、御当地三十三間堂造営したき志願に付き、僧正の執奉により、御金若干を給はり、其の上諸家の施財をつのりてつひに成就す」

 新両替町は現在の銀座通りの一−四丁目に当たり、通りの北側には弓作りの職人・弓師が多く住む弓町があった。江戸の三十三間堂は、信仰より弓道発展のために建立されたものだった。それだけ、京都の三十三間堂の通し矢は有名な行事だったのだろうし、天海僧正のとりなしもあって幕府も武術振興のためならと“補助金”を出したのだろう。完成した江戸の三十三間堂では、当然通し矢が行われた。

 ところが、この三十三間堂は元禄十一年(一六九八)九月の大火で焼けてしまった。

 『武江年表』に「此の時浅草三十三間堂焼けて、元禄十四年に至り深川に建つ」と記されている。浅草の三十三間堂の歴史は五十六年で幕を閉じた。

 それでも、江戸の三十三間堂は場所を変えて再建された。その浅草、深川の詳しい場所については稿を改めてご紹介しよう。

(掲載号:10月09日号)