週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

浅草は 江戸の 下町か

 浅草は今、東京の典型的な下町といわれている。『広辞苑』では下町を「低い所にある市街。商人・職人などの多く住んでいる町。東京では、台東区・千代田区・中央区から隅田川以東にわたる地域をいう」と定義している。浅草は、完全にこの中に入る。

 では、江戸時代はどうだったのだろう。

 文政十二年(一八二九)、幕府が編纂した『御府内備考』は「日本橋川筋より北の方、神田堀内に属する町名(ならびに)里俗呼名」の後に「此邊おしなべて下町と云」と記している。つまり、日本橋川と神田川の間が下町で、浅草は完全に下町からはずれている。

 下って明治三十八年、江戸生き残りの古老菊池貴一郎が著した『絵本江戸風俗往来』(東洋文庫。原題名『江戸府内絵本風俗往来』は、「江戸市の大略」でもっとはっきりその範囲を示している。

 「市中の中央は日本橋とす。日本橋より数町四方、東は両国川、西は外濠、北は筋違橋(すじかいばし)・神田川、南は新橋の内を下町と唱え、……日本橋何町、神田何町、京橋または新橋を、町名の上に冠りして呼ぶ土地には、寺院というもの絶えてなし。且つまた武家屋敷も稀なりとす。この地は工商をもって満ちたり」

 外濠は、東京駅八重洲口前を南北に走っている外堀通り沿いにあった。両国川は、隅田川のことである。浅草は、全く下町の圏外になる。

 同書の解説に、著者は嘉永二年(一八四九)の生まれで、長く日本橋に住み、晩年に四代広重を名乗った画家とある。江戸の人の認識では、浅草は下町に入らなかったといえる。

 だが、浅草の歴史は大半が埋め立て地の江戸の下町よりずっと古い。浅草観音・浅草寺の門前町として江戸時代以前から繁盛していた、江戸・東京の盛り場の原点ともいえる町に違いない。

(掲載号:10月02日号)