週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

印刷業に 旧幕臣の 佐久間貞一

 明治九年(一八七六)東京・銀座の数寄屋橋ぎわに創設された秀英舎 (しゅうえいしゃ) (現・大日本印刷株式会社)の初代舎長、佐久間貞一は、こんな講演を残している。

 <私は旧幕府の人間でござりましたから、明治の初めに東京を出て処々方々を () げ歩きまして(後略)>

 慶応四年(一八六八)五月、江戸城を明け渡した旧幕臣のうちの約千人が彰義隊を結成して上野の山に立てこもった。大村益次郎の指揮する官軍に蹴散らされて悲惨な結末を迎えたが、彰義隊に参加した佐久間がその戦陣をどう掻い潜ったかは明白ではない。

 その年九月、慶応は明治と改元され、大政を奉還した徳川家は静岡七十万石の藩主に移された。幕府賄方 (まかないかた) (食料品の調達・調理担当役)の小禄の武士に生まれた佐久間は当時二十歳で、静岡に移住し、掛川で学問や武術を学び直した。興味深いのは、この静岡藩の優秀な人材を全国諸藩に貸し出す制度が設けられたことである。明治三年、佐久間はなんと官軍の本拠地、鹿児島に貸し出され、小学校などを新設する仕事に参加する。

 こうした中で佐久間は実業家を志し、西欧の新しい活版技術が教育や宗教の普及のためには必要と気づき、印刷会社秀英舎を創設する。秀英舎には「先進国の英国より秀でる」願いが込められており、社名の看板が勝海舟の直筆というのが自慢だった。

 当初は苦難の連続だったが、これも旧幕臣、中村正直のベストセラー『西国立志編 (いごくりつしへん) 』(明治三年から木版で刊行)を活版で発行する仕事を引き受け、これが爆発的に売れて事業は順風満帆で発展する。

 佐久間は自ら現場に入って従業員と作業を共にするタイプで、設備の近代化と労働環境の改善に努めた。会社が現在地の新宿区市谷加賀町一−一に敷地を求めたのは明治十九年である。

(掲載号:07月31日号)