週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

谷を跨ぐ 立体交差 曙橋誕生

 平成二十年六月、東京メトロ副都心線の池袋−渋谷間が営業を開始した。新線は池袋から早稲田、大久保など新宿区の中央部をJR山手線の内側沿い に南北につないで渋谷に達する。都心から郊外へ向かう放射路線ではなく、いわば周辺を結ぶ環状線である。

 道路でも鉄道でも、政治や経済の中心である都心から周辺主要部へ放射状の路線がまず造られ、続いて環状路線が整備されていく。江戸時代の切絵図を見ても事情は変わらないようである。

 嘉永三年(一八五〇)の尾張屋板「四ツ谷絵図」には、四ツ谷御門(現・JR四ツ谷駅付近)から内藤新宿へ甲州街道(新宿通り)が東西に太く伸びているが、街道から南北に入る道は細くて短い。絵図には、「天王ヨコ丁」(東福院坂)、「荒木ヨコ丁」(()守坂(かみざか))、「菱ヤヨコ丁」(四谷三丁目交差点から北へ入る外苑東通りの前身)など多くの横丁が細枝のように書き込まれている。

 菱屋(ひしや)横丁は、菱屋という仕立物屋があった横丁で、西迎寺(さいこうじ)養国寺(ようこくじ)に突き当たる細い路地だったという。寺の裏は急な崖である。つまり、牛込地区と四谷地区の間には深い谷が横たわっていた。このため、牛込と四谷を南北に直結する幹線道路計画が何度か立てられたものの、太平洋戦争で中断されていた。

 昭和三十二年六月、この南北を結んで待望の曙橋(あけぼのばし)(新宿区片町)が完成した。いまの外苑東通りに、靖国通りを跨いで出来上がった長さ百十二メートル、幅二十二メートル、戦後初の立体交差の陸橋だった。

 曙橋の直ぐ北、防衛省の西南には合羽坂(かっぱざか)がある。沼地で河童が出たという言い伝えがあったからだが 、当初は合羽坂跨道橋と呼ばれた橋の名前は区民からの公募の結果、「曙橋」と命名された。都営地下鉄新宿線の現在の駅名もここから出ている。

(掲載号:06月26日号)