週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

幕末明治 浮世絵師 月岡芳年

 幕末の世情は不安に満ちていた。異国船、志士の活動、疫病、物価の乱高下、犯罪の多発、……。月岡芳年 (つきおかよしとし) 月岡芳年(つきおかよしとし)はそんな世相を生々しく描いて最後の浮世絵師と呼ばれている。

 芥川龍之介が大正八年に発表した短編『開化の良人』のなかで、語り手の本多子爵の口を通じて、芳年の浮世絵をみごとに説明している。

 「これを見ると一層あの時代が、——あの江戸とも東京ともつかない、夜と昼とを一つにしたやうな時代が、ありありと眼の前に (うか) んで来るやうぢやありませんか」

 月岡芳年は本名吉岡米次郎。天保十年(一八三九)武蔵国大久保(現・新宿区大久保)の商家の生まれ。幼時から画才を発揮し、十歳のころ歌川国芳 (うたがわくによし) に入門、十五歳のときに描いた平家一門滅亡の武者絵(錦絵)が残っている。

 幕末から明治へ激動する時代を迎え、明治元年(一八六八)には幕府軍の彰義隊が政府軍と死闘を演じた上野の戦争を、危険を冒して見に行っている。歴史上の勇士が凄惨な奮闘ぶりを見せる『魁題百撰相 (かいだいひゃくせんそう) 』は、この目撃経験を生かしたものといわれ、鮮烈な朱色で「血みどろ絵」の名で評判になった。

 文明開化の時代に入ると世相も一変し、一時的に強度の神経衰弱に陥る。明治六年ごろ蘇生したように画業に復帰し、大蘇 (たいそ) と名乗った。美人画、芝居絵で活躍、さらに新聞挿絵画家の草分けでもあり、二葉亭四迷『浮雲』の挿絵も描いている。当時、第一人者の評価を得て、水野年方 (みずのとしがた) 鏑木清方 (かぶらききよかた) などが入門している。

明治二十五年、再び脳の病が篤くなり、五十三歳で世を去った。墓は抜弁天に近い専福寺(新宿区新宿六−二〇−九)にあり、改葬された現在の墓石には経済学者で浮世絵研究家としても著名な高橋誠一郎博士の筆で「大蘇芳年之墓」と書かれている。

(掲載号:06月05日号)