週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

竹内下野守 封印された 遣欧の報告

 幕末の安政七年(一八六〇)一月、幕府の最初の遣外使節団として新見豊前守正興 (しんみぶぜんのかみまさおき らが渡米した。続いて文久元年(一八六一)十二月、勘定奉行兼外国奉行の 竹内下野守保徳 (たけのうちしもつけのかみやすのり を正使とする使節団が、こんどはヨーロッパに向かって品川沖を船出した。

 遣米使節団がアメリカとの条約批准書交換を主要目的にしていたのに対して、この遣欧使節団は、フランス、イギリス、オランダ、プロシア(ドイツ)、ロシア、ポルトガルの六カ国を歴訪し、これらの諸国と約束したばかりの新潟・兵庫(神戸)開港と江戸・大坂の開市が攘夷運動の激化で困難になった実情を説明し、延期を要請するという苦しい任務を背負っていた。

正使の竹内下野守は幕府勘定方 (かんじょうかた (会計担当)の出身で、箱館 (はこだて 奉行から外国奉行に昇進していた。箱館では海防、開発に尽力し、温厚篤実な人柄を買われていた。年齢も一行のなかでは最年長の五十六歳だった。随員には福地源一郎(のち新聞記者、劇作家)、松木弘安 ( こうあん (寺島宗則と改名、外務卿)、福沢諭吉らの名が見える。

 むろん幕府初の遣欧使節団で、乗艦には英国がフリゲート艦を提供した。白米、醤油、漬物、味噌から草鞋 (わらじ 行灯 (あんどん まで積み込み、赤道直下で腐敗した味噌を海中に投棄、草鞋や行灯も使う必要はなく、旅先で処置に困っている。

 使節団の任務遂行も難航した。結局、英国公使オールコックらの仲介を得て、開港・開市を強行すれば日本国内が攘夷の志士のテロで混乱し、自由な貿易が不可能になると説明し、やっと延期の了解を取り付けた。大任を果たして一行は一年ぶりに帰国したが、攘夷の嵐のなか欧州での見聞の口外は一切禁じられた。

 竹内下野守は報われないまま慶応三年(一八六七)他界、墓所は新宿の養国寺(同区愛住町二一)にある。

(掲載号:05月29日号)