週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

辰五郎 被官稲荷 浅草神社

 浅草の町火消「を組み」の頭で、幕末から明治初期にかけ侠客として名を馳せた新門辰五郎(一八〇〇−一八七五)は下谷山崎町、現在の台東区上野四丁目で生まれた。数え十八歳のとき、見込まれて寛永寺門跡・輪王寺宮の家来町田仁右衛門の養子となった。

 新門は通称で、輪王寺宮舜仁 (しゅんにん 法親王が浅草寺の本坊伝法院に隠居されたとき、新しい門を造られ、その門番に任じられたのに由来している。法親王の推薦で一橋慶喜の警護役となり、彼が最後の将軍になってからも付き従った。

 慶喜が鳥羽伏見の戦いに敗れて大坂城から船で江戸に脱出するとき、大金扇 (だいきんせん の馬印を城中に忘れてしまった。辰五郎はすぐ戻って金扇を持ち出して引き返すと、船は既に出帆していた。だが彼は少しもあわてず、子分を引き連れて馬印を押し立てて東海道を駆け下ったという。

 若い時分、大名火消連中と火事場で喧嘩をして相手を殺傷して石川島の人足寄場送りとなった彼は大火が石川島にせまったとき、仲間と油倉の目塗りをして延焼を防いで釈放されたという経歴もある。

 何事にも度胸が据わっていた。そんな彼の妻が安政元年(一八五四)、重病にかかった。辰五郎が京都の伏見稲荷に平癒を祈願したところ、全快した。喜んだ彼は翌年、伏見稲荷を三社・現浅草神社本殿裏に勧請した。これが今も鎮座している被官稲荷である。

 間口一・五メートル、奥行き一・四メートル、杉皮葺き、木造の社殿は「一間社流造 (いっけんしゃながれづくり 」という構造で、創建時のものである。全体がやはり木造の覆屋 (おおいや で保護されている。覆屋は大正時代に造られたらしい。

 社前には「安政二年九月立之 新門辰五郎」と刻まれた石の鳥居も建っている。「被官」という名称の由来はわからないが出世にご利益があるといわれている。

(掲載号:05月15日号)