週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

神楽坂を 揺るがした 大正ロマン

 女優松井須磨子が、大正三年に『復活』の劇中歌として熱唱した『カチューシャの唄』は西欧の近代音楽に和風を加味した中山晋平の清新な作曲で爆発的にヒットした。

 当時ラジオ放送はまだない。富裕な家庭にようやく蓄音器が普及しはじめた頃だが、須磨子が吹き込んだレコードは忽ち二万枚を売りさばき、経営難のレコード会社を立ち直らせたという話が残っている。竹久夢二の装丁で出版された楽譜は三万部に達した。

話題を呼んだ理由は、もう一つあった。早稲田大学教授で『復活』の訳者である島村抱月と須磨子のロマンスが表面化して、抱月の恩師坪内逍遥が説得に努めたが解決できないまま、抱月は逍遥のもとを離れた。須磨子も逍遥の主宰する文芸協会から「諭旨退会」の処分を受けた。こうした経過はハデな新聞ダネになり、抱月と須磨子は背水の陣で活動を続けていたからだ。

 松井須磨子は本名小林正子。長野県松代町(現・長野市)の出身で、戸板康二『物語近代日本女優史』には<小林家は真田藩士の家柄で、庭に滝が落ち、土蔵がある旧家だった>とある。東京で再婚した夫の紹介で坪内逍遥の演劇研究所に入ったのだから、須磨子の女優志願は偶然に近い。

 しかし日本の新劇女優第一号は猛烈なダッシュを始めた。隆鼻術で鼻を整形し、ひたすら演技実習、発声訓練、セリフ練習に励む。家庭を放棄してしまったため夫と離別したが、熱意は少しも衰えない。歌も全くの素人だったが、中山晋平の指導でしだいに身につけていったという。

 ただ予想外の結末が待っていた。大正七年、猛威を振るったスペイン風邪で抱月が急逝する。翌年一月、須磨子は本拠だった芸術倶楽部(新宿区横寺町十)で後追い自殺した。倶楽部跡に新宿区の史跡説明版がある。

(掲載号:02月28日号)