週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

浅草寺 平内堂 由来記

 江戸時代初め(くめの)平内という武芸者がいた、と伝えられている。伝説の人だけに、その経歴は諸説 あってはっきりしないが、中国地方または九州出身の浪人で本姓は兵藤、粂平内は通称だったらしい。

 「六月六日、兵藤平内卒す(無関一素居士といふ。俗にいふ粂の平内なり。駒込海藏寺に墓あり)」

 『武江年表』天和三年(一六八三)の記事で、海藏寺は今も文京区向丘二-二五-十にある。同寺には富士山信仰の中興の祖といわれる身 禄行者の墓があり、区指定の史跡になっているが、その墓の近くに「久米平内夫妻の墓」という標示のある古びた墓石がひっそり建ってい る。

 その平内は、一説によると徳川将軍家の剣術指南柳生但馬守宗矩の門人で、剣豪荒木又右衛門を打ち負かすほどの腕前だったと伝えられ る。生涯浪人を通し、ときに千人斬りの物騒な悲願を立て多くの人を殺傷したという。

 しかし晩年にはその所業を悔い改め、浅草寺内の金剛院に住んで仁王座禅の法を一心に修行した。さらに死に臨んで罪業をつぐなうため 、自身の石像を作らせて人通りの多い浅草寺仁王門付近に埋め、多くの人に踏み付けさせるようにした、といわれる。

 この「踏み付け」が後に「文付け」に転じて、像を埋めた所に設けられた平内堂に願文を納めれば願いが叶うという信仰が生まれた。さ らに江戸中期以降は特に縁結びのご利益があるということで、人気を集めた。

 今、浅草寺の宝蔵門(仁王門)手前の東側に、緑の布に白抜きで「久米平内堂」とある幟に囲まれて平内堂が建っている。昭和二十年三 月、戦災で焼けたのが同五十三年十月、浅草寺開創千三百五十年記念に再建されたもので、今も縁結びの願文らしいものが納められている 。

(掲載号:02月21日号)