週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

土中の 六地蔵 石灯籠

 浅草寺の影向 (ようごう) 堂境内にある都旧跡の六地蔵の石灯籠は、明治半ばまで吾妻橋の西のたもとにあって付近の隅田川べりは六地蔵河岸と呼ばれていた。江戸時代以前に造られたこの灯籠は、路傍にありながら大事に供養されてきた。

 灯籠は六角形の火袋の部分が空洞ではなく、各面に地蔵像が刻まれている。つまり火は灯せないようになっていて正式名を「六地蔵石幢 (せきとう) 」といい、灯籠ではなく石塔との説もあり、より大切に扱われてきたのかもしれない。

 だが明治になってからは、荒廃したまま放置されていた。当時の様子が、山本笑月(一八七三-一九三六)著『明治世相百話』(中公文庫)に載っている。著者は浅草花屋敷の創設者山本金蔵の長男で、朝日新聞の文芸部長などを務めた。文化勲章受賞の評論家長谷川如是閑の実兄でもある。

 「浅草観音堂の側にある六地蔵の石灯籠、今は大切に鉄の囲いに納まっているが、花川戸にあった頃はたいてい気がつかずに素通り。・・・・・・

 吾妻橋の手前、広小路から花川戸へ曲る角で鼻緒屋の横に小さく屋根囲い、さお石の半ばから下、三、四尺は土中に埋まったまま、それでも花と線香が供えてあった」

 浅草寺への移転は、道路や公園などを整備する市区改正事業に伴うものだったようだ。崩壊する危険があり、作業は慎重に行われた。運搬のため笠石をはずすと、火袋(胴石)の中に六体と見られる木彫の地蔵があったが「ぼろぼろで拝見不可能、そのままそーッとお練りで運んだ」という。

 移ってから、信心する人が増えたともある。お地蔵さまも観音さまの御利益を受けたようである。

(掲載号:01月31日号)