週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

六地蔵の 石灯籠は 浅草寺に

 浅草、品川、新宿などの寺々に一体ずつ安置されている江戸六地蔵に代表される六地蔵は、一切の生き物・衆生が善悪の業によってそれぞれおもむく地獄、餓鬼道など六つの迷界で衆生の苦しみを救うとされている。六地蔵信仰は江戸時代以前から盛んだったらしく、その証拠が浅草寺境内に残っている。

 本堂の西側、観音を中心に十二支それぞれの守り本尊を祀る影向 (ようごう) 堂が鎮座している一画、堂に向かって斜め左前に建つ六角形の建物の中、高さ約二・三メートルの古びた灯籠がそれである。金網越しに見える灯籠の火袋部分六面にそれぞれ地蔵像が彫られている。

 都旧跡に指定されていて、『江戸名所図会』にも載っている灯籠だが、昔からここにあったものではない。「雷神門の外、花川戸町の入口角にあり。故に土人此所の河岸をさして六地蔵河岸といへり」と記され、道端に建つ当時の挿絵も掲載されている。

 『東都歳事記』にも正月二十四日の項に「浅草大川橋手前、花川戸町角、古物六地蔵の石燈籠念佛修行」とある。大川橋は現在の吾妻橋のことで、その西のたもとに建っていたため、辺りの隅田川べりを六地蔵河岸といった。

『江戸名所図会』は、ここは昔から奥州街道の馬次、つまり馬の乗り換え場所で、灯籠は、平安時代末期の久安二年(一一四六)、源頼朝や義経の父の義朝が浅草寺に参詣して建物を造営したとき、家臣の鎌田正清が奉納したと伝えられている、と記している。

 奉納年代、人物には室町時代中期の文安三年(一四四六)に浅草郷住人惣兵衛が寄進したとする異説もある。だがいずれにしろ、江戸時代以前の古い石造物に違いない。

 明治二十五年、そのころ半ば土中に埋まっていたのが掘り出され、浅草寺境内に移された。

(掲載号:01月24日号)