週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

横寺町 泉鏡花 婦系図

 新宿区が編集したガイドブック『新宿文化絵図』(平成19年刊行)は街の歴史を分かりやすく親切に紹介している。

 その町名由来の項で、横寺町 (よこてらまち) を調べてみる。

<隣接する牛込通寺町 (とおりてらまち) (現・神楽坂六丁目)の横町で、しかも寺町であったことからこの名がつけられた。明治になって近隣の長源寺、泉蔵院、龍門寺、生定院を編入したが、これらはいずれも江戸時代から横寺町とよばれていた>

 JR飯田橋駅の西口を出ると、江戸城の牛込御門の石垣が残されている。西へ外濠を渡って神楽坂を登り早稲田に向かう道が牛込御門通りで、今の神楽坂六丁目あたりの寺町が通寺町だった。その通りを南へ折れた寺町が横寺町で、江戸時代からの町名である。

 泉鏡花が『初めて紅葉先生に (まみ) えし時』という研ぎ澄まされた小文を書いている。金澤から上京した数え十九歳の少年が文学結社硯友社 (けんゆうしゃ) を率いる尾崎紅葉を恐る恐る訪問した時の記録である。

 <東京牛込横寺町———尾崎———冠木門 (かぶきもん) なる御名札をあふぎて、まず住居は知れたり。(中略)此時此日、空晴れて、小春日和の朝のうらゝかに、庭樹の梢に雲もなく風 (さわやか) に天澄みぬ。明治二十四年十月十九日午前八時三十分>

 数え二十五歳の青年だった紅葉は思いのほか気さくで、泉鏡太郎に鏡花の号を与え書生住まいを許した。鏡花は玄関番を務めながら、紅葉の文章添削を受け、さらに新聞雑誌に作品が掲載できるようになる。作品が不評でも親分肌の紅葉は鏡花をかばった。

 その紅葉が激怒した。鏡花が神楽坂の芸妓桃太郎とひそかに同棲した時である。紅葉の厳命で、二人はやむなく別居し、紅葉の死後に再び生活を共にする。のちに、この経験が鏡花の名作『婦系図 (おんなけいず) 』を生み、劇化されて新派の当たり狂言になった。

(掲載号:01月17日号)