週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
尾崎紅葉 新聞小説 苦心の跡
明治二十二年(一八八九)、新進作家の尾崎紅葉と幸田露伴の二人がそろって読売新聞に入社した。主筆の
当時、紅葉は数えで二十三歳、東京大学を中退し文芸結社
紅葉は井原西鶴の文体を学び、さらに言文一致の「である」調の普及者としても知られている。文章の洗練にこだわり、原稿が不満だと連載が途切れる。
原稿用紙の各所に細かい紙の切り張りがあり、何枚も張り重ねて山を築いている箇所まであった。市島がそれを一枚ずつ剥がすと文章が磨かれていく経過が一目瞭然で、そのあと本野はなにも言わなくなったという話がある。
紅葉は明治三十六年、胃がんのため世を去った。死の数ヶ月前、日本橋の洋書輸入商丸善を訪れている。丸善の顧問だった内田魯庵が出てみると、評判のブリタニカ大百科事典が欲しかったという。あいにく売り切れだったので、魯庵が「入荷しだい直ぐ知らせる」と言ったが、紅葉は代わりにセンチュリー大百科を買い求め、「頭のはっきりしているうちに一日でも長く見ておきたい」と微笑した。
尾崎紅葉旧居跡(新宿区横寺町四七)は区指定史跡として今も残る。明治二十四年、紅葉はここに居を構え硯友社の活動拠点とした。玄関脇の書生部屋には門弟の泉鏡花などが住み込み、多くの文人が出入した。
(掲載号:11月22日号)
