週刊新潮「タワークレーン」
旧尾張藩士 坪内逍遥と 二葉亭四迷
坪内逍遥(本名・雄蔵)は明治十六年(一八八三)東京大学を卒業して文学士の称号を得た。当時、最高学府 の学士号は今の博士号より威光を放ったらしい。だから、明治十八年九月に画期的な文学論『小説神髄』を出版 したときには「文学士坪内雄蔵著」と銘打っている。
有名な小説『 当世書生気質 』は「春のやおぼろ」 の筆名でやや先行して同年六月から雑誌型分冊形式で刊行を始め大きな反響を呼んでいた。同時代の作家 内田魯庵 ( は『思い出す人々』(岩波文庫)のなかで、逍遥を「明治の文学の開拓者」と言い、こう証言している。<当時の文学士は今の文学博士よりは十層倍の権威があった ものだ。その重々しい文学士が下等新聞記者の片手間仕事になっていた小説—その時分は全く 戯作 ( だった—その戯作を堂々と署名して打って出たという事は実に青天の霹靂(下略 )>
逍遥のおかげで作家の地位が世間にやっと認められ、文芸に興味を持った青年が文壇に身を投ずるようになっ たのである。明治十九年一月、 二葉亭四迷 ( (長谷川辰之助 )が逍遥を訪ね、翌年小説『浮雲』を発表する。内向的な性格で、我が身をクタバッテシマエと自嘲し、それを 筆名にした。
二葉亭の有人で、逍遥に弟子入りした作家 嵯峨 ( の 屋御室 ( (矢崎鎮四郎)は、ある日、逍遥のお供で猿楽町(千代田区)の二葉亭宅を訪 れると二葉亭は不在なのに、出てきた父親が逍遥と「先日は失敬しました」と挨拶を交わしているのに驚かされ た。実は坪内家も長谷川家も旧尾張藩に属し、知り合いだった。
尾張藩邸が市谷邸(現・防衛省)戸山荘(新宿区戸山町)などを本拠としたので、旧藩士には馴染みがあり、 明治二十二年、逍遥は大久保 余丁町 ( (新宿区余丁町七の一)に 新居を構えた。
(掲載号:11月15日号)