週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

江戸の 香残す 三栄町

 JR四ッ谷駅を出て新宿通りを西へ歩く。江戸時代には、江戸城の西、つまり半蔵門、四谷見付門と続く甲州街道で、最も警備が重視され、周辺には親藩、譜代の大名や旗本など幕臣の屋敷が配置された。

 新宿歴史博物館のある新宿区三栄町(さんえいちよう)は、江戸以来の北伊賀町(きたいがちよう)新堀江町(しんほりえちよう)箪笥町(たんすまち)が昭和十八年に合併し、三町の繁栄を願って名づけられた。北伊賀町は伊賀忍者ゆかりの服部半蔵が統率した伊賀の屋敷町に由来する。

 新堀江町の地名にも物語がある。将軍家御用の野菜を扱っていた中村家の名主、堀江家が茄子苗三千本の植付場としてここを拝借、御用茄子三千本を上納していた。天保七年(一八三六)に植付場の前に町屋ができ堀江氏の名が付けられたが、すでに日本橋に堀江町があったので新堀江町になったというのである。

 それに箪笥町。もともとは幕府の鉄砲玉薬(たまぐすり)奉行榊原小兵衛の組屋敷があったことに由来する。幕府関係の武器類を総称して御箪笥(おたんす)と呼んだ。将軍への敬意で御が付いたが、明治に入って取られている。

 江戸時代後期、北伊賀町(現・新宿区三栄町一八)に住んだのが伊賀忍者の血を引く剣豪平山行蔵(ひらやまこうぞう)である。直木三十五『日本剣豪列伝』(河出文庫)によると、<七十で歿するまで、毎日水風呂に入り、それが済むと、七尺の棒を、五百篇ずつ使って、居合いを試みること、三百篇>とある。

 文化四年(一八〇七)ロシア艦の蝦夷地襲撃を聞くと、幕府に海防を建議し、先陣を志願した。結局、願いは聞き入れられなかったが、そのころ蝦夷地を調査した近藤重蔵、間宮海峡に名を残す間宮林蔵とともに「天下の三蔵」と称揚された。

 終生、粗衣粗食を貫いた平山行蔵の旧居「兵原草廬(へいげんそうろ)」跡は、いまの三栄公園の東隣のあたりである。

(掲載号:11月01号)