週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

千束の 地名は 古い

 江戸時代初期の明暦三年(一六五七)から昭和三十三年まで三百余年続いた遊廓新吉原の跡地の町名がただの千束になったのは同四十一年だった。もっとも、千束は江戸時代以前からの歴史がある古い地名で、元をただせば新吉原地区も千束だった可能性が強い。

 『江戸名所図会』には「千束郷 (せんぞくのごう)」とあって「竜泉寺町の辺、今 ( わずか)の地をいへり」とある。だが、この後に「或人云ふ、往古 (むかし)上下 (かみしも)とわかれて、浅草天王町の辺より千住の橋際までを、すべて千束郷といひけるとぞ」と記して、いろいろ考証している。

 浅草天王町は、JR浅草橋駅からほど近い通称団子天王の須賀神社付近、浅草橋二丁目内にあった町である。そこから隅田川上流の千住大橋際までといえば、今の浅草地区やその周辺がすっぽり入るくらいの広い地域になる。

 『御府内備考』は「浅草之一」の總説で「浅草といふ地は古へ千束郷のうちなりしと見ゆ」との後に「千束郷跡に千束村と云、今も千束の名残れり」と記している。その根拠として、『図会』も触れている浅草寺の至徳 (しとく)四年(一三八七)鋳造の鐘に「豊島郡千束郷金龍山淺草寺」の銘があることを挙げている。

 この鐘は現存しているが、江戸東京の地誌に詳しい小森隆吉氏は著書『江戸浅草町名の研究』の中で、銘文は改ざんされたものだとしている。同氏は江戸幕府が室町幕府十三代の歴史を編纂した『後鑑 (のちかがみ)』に収録されている貞和二年(一三四六)の日付の浅草寺関係文書に千束郷と記されたものがあると指摘している。

 いずれにしろ、千束の地名は南北朝時代には既にあって郷から村、町名と時代が下るにつれその範囲が狭くなった。千束の由来は浅草寺が千束分の稲田を寺領に持っていた、または千僧供が転じたなどの説がある。

(掲載号:10月25日号)