週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
千束に なった 新吉原
東京で「吉原」といえば、今でも多くの人はかつての遊廓・新吉原跡の風俗地区のことと承知している。吉原、正しくは新吉原の地名が消えたのは、 昭和四十一年十月一日だった。同三十三年の売春防止法施行によって遊廓はなくなった後も、町名だけは七年余り存続していた。
現在の中央区日本橋人形町三丁目にあった遊廓の吉原(元吉原)が、幕府から浅草日本堤または本所へ移転を命じられたのは明暦二年(一六五六)のことだった。江戸の中心部に風俗街があるのは好ましくないという理由で、吉原の名主達は日本堤を選んだ。
翌年早々、江戸を焼き尽くす振袖火事があったが、吉原遊廓はその六月、まず浅草今戸、山谷付近の農家で仮営業の後、八月、日本堤に完成した新しい遊廓に移った。新吉原である。
『江戸名所図会』に「日本堤の下にあり。俗に
歌舞伎十八番の『
昭和の町名改正以前、古い五丁町に加えて揚屋町の名も残っていた。正式には、浅草新吉原江戸町一丁目というように、いずれの町にも頭に「浅草新吉原」が付いていた。
現在の町名は、簡単明瞭な千束の二字である。京町一・二丁目は千束三・四丁目、江戸町一・二丁目、角町、揚屋町は千束四丁目にそれぞれ変わった。
(掲載号:10月18日号)
